許永中その4

 

「許永中」
1947年(昭和22年)大阪市生まれ。

 

 
26歳で建設会社を興し、最盛期はグループ会社30社とも
40社ともいわれました。

 

 

 

 

 

身長180センチ、体重100キロを越えた巨体、言動はその風貌に相応しく、押しの強さは一目置かれたとされ、それでいて慎重な振る舞いも忘れないといわれ自らの事柄を語ることはありませんでした。

 

 

 

1990年、元山口組系列の組長経験者で「コスモポリタン」社長の「池田保次」氏が「東京へ行く」と言い残して消息不明となりました。

 

 

 

この池田社長が新井組の持株会社「テクノエンジニアリング」株を買い占めたとき、許永中氏は持株会社からの依頼で池田社長に接触、株の回収を図ったのが許氏と池田氏の出会いのきっかけとされています。

 

 

 

コスモポリタンが一躍有名になったのは、日本ドリーム観光株の買い占めで、同社の子会社「雅叙園観光」の経営権
を手中にしたことでした。

 

 

 

その信用力を背景に、東海興業、新井組などのゼネコン株の買い占め、大株主として影響力を行使、マスコミ上を賑わせました。

 

 

 

ただ、一部上場会社の経営権を、バブル景気を背景にアウトローが派手にやりとりする様が、司法当局や大蔵省を刺激しました。
機会メーカー「タクマ」を買い占めたところ、タクマが防戦で実施した増資が認められ、池田社長は一敗地にまみれるところとなったのです。

 

 

 

その一年後、先程の失踪事件がおこり、許永中氏が事業を引き継ぐことになりました。

 

 

 

その後処理である雅叙園観光の債権者として「伊藤寿永光」が登場しました。

 

 
いうまでもなく、河村良彦イトマン社長と共に特別背任の容疑に問われた主役で、不動産投資のノウハウで助け舟を出すように食い込んでいった背景には、コスモポリタンの財テクで被ったツケを処理する目論見があったとされています。

 

 
話は戻りますが、先述の新井組テッポウ株事件で、関西を中心にした証券会社十数社が被害を受けたとされていてそのうち、小川証券が清算に追いやられました。

 

 
そんな中、京都信用金庫の系列ノンバンク「キョートファイナンス」で一人の役員による内部告発がきっかけで、とんでもない事実が明るみになりました。

 

 
不良債権の殆どが、暴力団関係者をはじめ協和総合開発(伊藤寿永光代表)八幡ギャラリー(イトマン)許永中関連企業が占めていたのです。

 

 
また、再建計画の中で京都銀行株の買い戻し条件に何故か新井組株も加えられていて、石橋産業がその株を取得するという契約が交わされました。

 

 

 

石橋産業は、以前に別の暴力団関係者から株の買い占めを受けその回収で許永中氏と関わりを持つようになったのです。

 

 

石橋産業は、総額85億円を貸し付けた形をとりましたが、結局手元には担保に取っていた2千万円程度の絵画が一枚残っただけとなり、告訴もしましたが、捜査も途中で打ち切られていったのです。

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