バブル崩壊後増殖したシステム金融屋

取っ掛かりのパターンとして多かったのは

「無担保・無保証・金利3% 100万円即融資」


などと謳ったダイレクトメールが企業に送られてきました。

金に困った経営者は大抵は電話でこう問い合わせます。


「3%というのは本当ですか?」

今でこそ3%の金利といえばそんなに安いという感覚は無いですが、当時は公定歩合でもこの辺りで推移していた時代です。

システム金融屋は

「それは間違いございません。ですが初回ですから別に商品を45を万円ほど買っていただきます。その代わり年利3%は天引きさせていただきます」


つまり、100万円の融資なら別に45万円分のダイヤとかネクタイとかを買うような商品契約を結ばせられるのです。

商品抱き合わせ契約と呼ばれるものですが実際に商品は存在しません。

結局、100万円借りるのに、145円支払うのと同じで、返済日は10日後、20日後、30日後と3回に分けられ実質、月利50%以上の利子となるのです。

当時出資法に定められた上限利息は年利40.004%以下でした。

システム金融屋は月利50%ではなく商品契約だから合法とだと言い張っていました。
 

そしていざ融資の段になると、今度は担保代わりに

「145万円の小切手を3枚に分けて、先日付で切ってくれ」

と言ってきました。

たとえば、1か月後に50万円、50万円、45万円という具合に、借り手は小切手を切らされることになるのです。

小切手は、システム金融屋が指示した私書箱に郵送。

送るとすぐに入金があるものの、返済日はあっという間にやってきます。

1回日を10日後に、さらに10日後に2回目を振込んで残る支払いがあと1回という段階になると、ここで

「もう一口どうですか?」

という誘いの電話が必ず入ってきます。

そしてこの段階で別のシステム金融業者から頻繁に電話がかかってくるのです。

これらは社名は違っても、返済金の振込先名義人が同一人物ということが多く、同じ金融グループなのです。
 

システム金融屋のもう一つの特徴はころころと頻繁に社名を変更することです。

また、ノンバンクには保証人が必要でしたが、システム金融は「保証人不要」というのがウケていました。

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昭和時代の整理屋

その舞台は昭和50年に設立された名古屋市に本店を置くスポーツ用品の小売販売会社でした。

資本金500万円の同族会社で、昭和57年ごろからディスカウントショップを相ついで出店し、派手な安売り広告をして世間の注目を浴びていました。

ところが、その内実は店舗拡張に伴う運転資金の逼迫と、スキー用具等の季節商品の売り上げ不振にあえいでいたのです。

正規の金融機関からの莫大な借り入れのほかに高利金融業者からの借り入れが相つぐようになりました。

この高利の借り入れについては、社の内外で常務と呼ばれる人物が取り継ぎをしていましたが、こうした借り入れについてはほとんど、社長、専務、あるいは親族の個人財産が担保として差し入れられていました。

そして社長と専務は、近い将来会社が倒産必至の状態となったため、東京の弁護士の紹介で名古屋の弁護士を訪ねて対応策を協議、自己破産によって整理するほかないという結論になり、極秘裏に準備を進め、不渡りの予想される日までに破産の申請と財産保全命令の申請をすることにしました。

負債総額が20億円で、そのうち高利の借り入れが8千万円、資産は12億円で、うち在庫商品は簿価で7億円というような状態でした。

ところが、そのあと社長も専務も音信不通になってしまいました。

そこで、整理に対していろいろの困難が予想されるということで、名古屋弁護士会の民暴センターのベテラン弁護士3名が、この事件の解決にあたることになりました。

ところが翌日早朝、高利貸との間をとり持っていた常務が、各店舗の鍵を担当者の自宅を回って借り出したです。

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そして、高利金融業者、あるいは仕入れ先の意を受けた暴力団や事件屋が、この男の手引きによって、トラック7台で開店前に在庫商品の持ち出しを開始しました。

こうして主要商品、ゴルフボールやゴルフセット等、数時間のうちにその7店舗から全部搬出し終えました。

事情を知った他の債権者も次々に押しかけて、取りつけ騒ぎになったのですが、このうち3店舗ほどには暴力団の名前が張り出され、戦闘服姿の暴力団員が占拠してしまいました。

社長とか専務は、弁護士と密室で破産手続の準備を進めていたのですが、こういう実情を知らされた段階では、もうほとんど商品が運び出されてしまっていたのです。

各店舗の催業員は、事情もわからずただ見守るばかりで、本社には多くの債権者が結集して、不穏な状態となっていました。

そこで弁護士らが、本社での債権者との対応、重要書類の確保、従業員に対する説明と指示、各店舗の状況の確認に奔走しましたが、各店舗が離れた場所にあったため、処理に長時間を要したうえ、従業員は弁護士とは初対面で、幹部とも連絡がとれず、さらにこのころから社長も姿をくらましていたのです。

従業員は完全に動揺し、対応能力を失ったばかりか、自分の労働債権の確保とか個人的に関係の深い得意先の利益の確保に奔走するありさまでした。

社長は、所在不明でしたが探させてみると、このような事態にショックを受けて倒れ、弁護士との連絡もつかない状況でした。

こうして、結局会社の資産は整理屋に全部してやられたのです。

整理屋というのは、暴力団が自ら整理屋になったり、あるいはまた高利金融業者が整理屋になる場合もあれば、表向きカタギでもバックに暴力団とか高利金融業者がついている整理屋もいます。

そして、たいてい経理の専門家、あるいは法律などの専門家がヒモづいています。

当時、日本一の整理屋といわれた山富の専務は、有名な大学の法学部出身でした。

また整理屋の幹部に、法律のわかる者、あるいは司法試験くずれ、弁護士が関与していることも多くありました。

そして傘下の多数の高利金融業者をアンテナにして、倒産間近い企業をかぎつけます。

一つの企業が瀕死の重傷を負っている・・例えでいうとサバンナで野獣が倒れたとします。

すると死臭あるいは血のにおいをかぎつけて、複数の整理屋がハイエナのように押しかけてきます。

そこで複数の整理屋の主導権争いでは、まず倒産企業の代表者の身柄を確保して、商業帳簿とか代表者印を手に入れた者が勝ちなのです。

身柄の確保とか帳簿、印鑑の確保ができなかった整理屋は、勝った整理屋から涙金をもらってすごすごと引き揚げていくという構図になっています。

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許永中と石橋産業 その4

当時、新井組の筆頭株主は伊藤寿永光(いとうすえみつ)元イトマン常務の会社である協和総合開発研究所でしたが実質的には許永中が所有していました。

 

その保有株1120万株は京都のノンバンクであるキョート・ファイナンスにグループ企業への融資約470億円の担保として差し入れられていたのです。

 

突然の新井組株の買い取り話に、「石橋にはそんな金はありません」と即座に返答した林社長に、「世間のやつらワシのことを殺し屋やいうとるらしいけどほんま迷惑な話や。コスモポリタンの池田保次社長も行方不明になっとんのやが、それもワシが途中でジャマになったから消したというウワサになっとるらしいのや!」

 

と許永中は暗に脅しにかけました。

 

さらに1400円の株をどうやって3000円で買うのかと疑問をぶつける林社長に許永中は

「受け皿になってもらう時はワシの金で3000円以上の値にしときますがな。ちょっと提灯に火がついたらすぐでんがな。ま、そのへんのことはワシらの仕事でっさかいまかしておくんなはれ」と言いました。

 

株価操作で新井組株の値を上げてみせるから大丈夫・・という説明に結局乗ることになりました。

 

これが97年、業界で新井組と若築建設の合併話が飛び交うもとになり、一時期2500円台まで高騰後すぐに600円台まで暴落するといった新井組株の乱高下の原因となりました。

 

石橋産業側が新井組株の買い取りを了承したところから、許被告は「ま、見とっておくんなはれ。石橋さんをピカピカにしてみせまっせ! 財界でも大物に必ずしますからな」

 

石橋産業の石橋浩社長が、許永中と初めて会ったのは96年2月中旬頃、東京銀座の中華料理店で許永中は同社長に「アナタとは今後フレンドリーな関係で仕事に取り組みたい」と申し出ました。

 

以前の記事で書きました自殺した川西市在住の不動産会社社長井手野下氏の名前が許永中の口から出てきたのはちょうどこのころでした。

 

許永中は井手野下氏のことをロイヤル社の林社長に紹介。

 

「林さん、実はワシには取っておきの切り札がありまんのや。若築のメインバンクは住友信託でっしゃろ。そこのOBで井手野下秀守という人物がおります。

ワシが逮捕されてからは政治家や大企業のトップ連中もみんな我が身の保身ばっかりで寄り付きもせなんだけど、この井手野下いう人は大したサムライですわ。

週に一度はワシの女の店に来て励ましてくれたりして自分の地位など考えずに力づけてくれたもんです。

この人は住信から現在全日空ビルディングに出向中の立場なんやが、一度石橋さんと林さんと3人だけで会うてもらえんやろか。

とにかくワシが一番信頼している人やしワシのゴールデンカードであることは間違いない人や」

 

井手野下氏と会食することになり会談はいい雰囲気で終わりました。

 

会談が成功したことを確認した許永中は井手野下氏をいったん石橋グループの若築建設の役員にさせ、そこから50%の株を保有したあかつきには新井組社長として出向させることを提案しました。

 

しかし当時、井手野下氏を全日空ビルディング専務として出向させていた住友信託銀行側が難色を示したためこの案は見送りとなりました。

 

これは新井組をダシにして側近の井手野下氏を石橋産業に送り込み、あわよくば乗っ取りを図ろうとしていたことが見え見えの提案でした。

 

次に許永中は「アンタがキョートファイナンスの社長になってくれたら、ワシの匂いが消える」

 

と持ち出してきたのは林社長が京都のノンバンク・キョートファイナンスの社長に就任させることだったのです。

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3