ヤクザと被差別部落(同和地区)のルーツ

少し前の話になりますが、

元公安調査庁の菅沼さんという人が

ヤクザの60%が同和、

30%が在日である

と発表している動画が話題に

なったことがありました。

このような話を聞くと大抵は

「若いころ差別を受けたので
グレてヤクザになった」

というような論調が見受けられます。

表層的にはそうかも知れませんが

奥の深いところではもっと根本的な

理由があります。

私たちの年代、つまり昭和時代に

同和教育を受けた人は、授業の中で

江戸時代に士農工商と身分制度が

作られて厳しい年貢を取り立てられる

農民の不満をそらす為、

その下に「えた・非人」という

身分制度が作られた、

と教わったと思います。

これが最近では違うという事に

なっているのですが、

一つの説に渡来人説というのが

あります。

当然、江戸時代どころか、

もっと古くから有ったと

されています。

つまり、海外から日本に移ってきた

人が被差別部落の人々のルーツである

というものです。

そして、こういった差別問題を

研究している 学者先生というのは

社会問題には詳しいかも知れませんが

古代史というのは専門外と

いうこともあってか、渡来人

といえば中国、朝鮮半島から来た人

と決めつけてしまって

そこで止まってしまいます。

私はよく、田舎の神社仏閣を

巡るのですが、 兵庫県や奈良県の

山間部には

古代イスラエル・古代ユダヤ

の痕跡があるようなところが

多々あります。

そういったところは

ほとんど隣保館

(現在は名称を変えている

場合が多い)

というのが 建っていて

よそ者でもここが同和地区

というのが 判ります。

この渡来人というのは

古代イスラエルの失われた十支族の

一部の人達で、日本に来て、

軍事、都市開発(平安京を作った)

神社(八幡神社や稲荷神社は

古代イスラエルからの渡来人「秦氏」

が作った)

機織りなどの産業を広めたと

言われています。

当然ですが、ジャンボジェット機など

無かった時代ですから一足飛びに

来ることなどできません。

日本に来るといっても、

シルクロード沿いにその土地土地で

一時的に滞在、生活しながら

代替わりしながら来たのです。

ですから当然、現地の人たちと

結婚したりもあったでしょうし

そうするうちに中東系の顔から

アジア系の顔つきになるはずです。

また、各地で滞在しながらですから

表面上は中国、朝鮮半島から

来たように見えます。

そして高い技術力をもって

八面六臂の活躍をするのですが、

何かの組織に関わったことの

ある人なら 想像できると思いますが、

時の為政者にしてみれば、

これだけ優れた技術を持った人達が、

味方になって働いてくれているときは

有難いが、もし彼らが

反旗を翻したら・・と考えるのは

自然な流れだと思います。

田舎の被差別部落は

大体ものすごい僻地にある場合が

多いですが、彼らが力を付けて

刃向ってくる前に身分を落とさせて

僻地へ追いやった可能性は高いです。

そして以前、当ブログ(動画)の中で


田岡一雄親分が徳島の

古代イスラエル・古代ユダヤと

関係の深いところの出身だった

というお話をしました。

そのほかにも、ヤクザが

代目継承のときに

掲げているご神名

「八幡大菩薩(大武神)」
「春日大明神」

は、古代イスラエル・古代ユダヤと

関係が深いというお話もしました。

動画ではヤクザは目に見えない力で

動いているというタイトルのもの

ですが、その中で倭大國魂神社

というのが出てきました。

この神社の神紋(ヤクザでは代紋と

いうが神社なので神紋。お社に

掲げられていることが多い)


がユダヤに関係が深いと

されています。

私が長々説明するより

みにもんたのテレビで放送していた

ようですので見て頂くとわかります。

この神紋をよく見てください。

ご存じボンノこと菅谷政雄親分の

実のお兄さん(サンタ)が

西成で一本独鈷の組織

「菅谷組」を率いていたのですが

その代紋と全く一緒なのです。

こういうと、目に見えないものは

一切信じない という人は

「こんなもん偶然ですがな」

と言います。

しかし、何事も因果、原因がある

から結果があります。

サンタさんがこの代紋を選んだのも

田岡親分が徳島の古代ユダヤ

ゆかりの地だったのも

ヤクザの代目継承で

八幡や春日が出てくるのも

みんな意味があってのことなのです。

ヤクザも被差別部落の人々も

元のルーツは

古代イスラエル・古代ユダヤ

で時の為政者から

「こりゃ身分落とさせて僻地へ

追いやっとかなこちらがエライ目にあう」

と恐れられるほど

優れた技術を持ち合わせた

人々だったのです。

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許永中事件その6 大阪国税局と解放同盟との密約

しかしこの新日本建設の役員は、他のマンションでも許可を取っていた仕事人であることが発覚し自治会長を解任されてしまいました。

そしてこのマンション計画は市民の運動が実り計画はストップしました。

新日本建設は大阪市内ではリクルート事件で知られるリクルートコスモス社の下請けとして地上げを担当したり、大阪府堺市では高層マンション建設の共同開発者になったりもしていました。

新日本建設はなぜ大事業者のマンション建設の許可取り業者になることができたのでしょうか。

それは、許永中会社代表とそのグループがイトマンを手中におさめるまでにのし上がってきた謎を解く鍵でもあり、新日本建設をはじめ許永中グループの中心企業が、暴力と桐喝で行政を屈伏させ、やりたい放題やってきたのは部落解放同盟に直結した大阪府部落解放企業連合会(大企連)や大阪府同和建設協会(同建協)加盟業者というのがありました。

解放同盟系の団体がどれだけの力をもっているか・・

例えば、新日本建設が加盟していた同建協は大阪の場合、部落解放同盟大阪府連の指導と協力のもと、解放運動への自主財源獲得の基盤として重大な役割の一端を果たす・・

という設立趣意書とともに1970年4月設立、部落内同盟員で構成される土木建設業者団体でした。

これには大阪府下だけでも400社以上が加盟しており、同和対策事業を独占、一般の公共事業である大阪府発注の土木建築事業の2割を受注するなど、大手ゼネコンの談合組織に匹敵するほどの力をもっていました。

 

そのメンバーの一つ新日本建設は、89年の1年間だけで公共事業を31億4千万円も受注。

 

イトマン疑惑の表面化で、許永中とグループ企業は、相次いで税務署に億単位の修正申告をしましたが、その額は許永中会社代表の12億円を含め、93億円にものぼりました。

事実上の脱税である巨額の申告漏れが、なぜ見逃されてきたのでしょうか。

 

それは解放同盟系業者は、税務申告はノーチェックで、事実上フリーパスという大阪国税局と解放同盟との密約が1968年1月に当時の高木文雄大阪国税局長と部落解放同盟中央本部、大阪府部落解放企業連合会=大企連との間に結ばれていたためでした。

 

これらを窓口として提出される白、青色を問わず自主申告については全面的にこれを認めるなどの七項目の確認事項があったのです。

もともと、許永中会社代表は、凶暴さで知られる大阪市内の解放同盟支部長付をしていたともいわれていて、その解放同盟といえば行政はもちろん、大手企業、マスコミも「差別者」のレッテルをはられ、糾弾されることを恐れて屈服、追従していました。

 

許永中グループの中核企業「新日本建設」には「部落解放同盟兵庫県連委員長だった故小西弥一郎が役員に入っていたこともありました。

 

河内長野市で東亜大学分校誘致問題を担当した市幹部の肩書は「同和対策室長」。

 

自治体をも食いモノにしてきた許永中グループの暗躍は解放同盟というタブーにつつまれた現代日本の特権団体が背景にあってこそ可能だったのです。

 

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1968年1月30日、部落解放同盟中央本部・部落解放大阪府企業連合会(企業連)と大阪国税局との間で、つぎのような7項目にわたる確認書が交わされていました。

 

大阪国税局と解放同盟との密約

  • 国税局としては同和対策特別措置法の立法化に努める。
  • 同和対策控除の必要性を認め、租税特別措置法の法制化に努める。その間の処置として、局長権限による内部通達によってそれにあてる。
  • 企業連が指導し企業連を窓口として提出された白、青色をとわず自主申告については全面的にこれを認める。ただし内容調査の必要のある場合には企業連を通じ企業連と協力して調査にあたる。
  • 同和事業については課税対象としない。
  • 国税局に同和対策室を設置する。出来るまでの措置として担当は総務部長、窓口は総務課長とする。
  • 国税部内全職員に対し、同和問題研修を行う。この際講師については、同対室及び解放同盟と相談して行う。
  • 協議団(70年国税不服従審判所に発展的に解消)本部長の決定でも局長権限で変更することもできる。

この大阪方式は翌69年1月23日の解放同盟近畿ブロックと大阪国税局長との確認で、他の府県にも適用することとなり、「執行の際には中央本部と相談する」「助成金についても継続審議する」とされました。

 

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許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

許永中事件その2 山口組系古川組と豊国信用組合  

許永中事件その3 関西コミュニティと土地ブローカー

許永中事件その4 伊藤寿永光元イトマン常務と協和総合開発

許永中事件その5 新日本建設と新日本育成会

許永中と石橋産業 その5

なぜそのような事をいったのかというと当時許永中自身が抱えていたキョートファイナンスの巨額の債務をチャラにしてしまおうと思っていたからです。

 

許永中は

 

「林さんに社長になってもろうたときに、一番大切な仕事は、キョートファイナンスの借金の圧縮ですわ。

いまキョート・ファイナンスは各銀行から1600億ぐらいの借金をしとんのやが、大口借り手がワシと会津小鉄と同和の上杉でっしゃろ。

そんなんでよう返せと言えんのが現状ですワ。そこで、林さんが社長になって登場する後ろには石橋さんがついていてくれる。

銀行団もまず納得するし、これで貸金もいくらか返済されると多少は安心するやろうけど、そこで林さんが登場してやナ、新井の処分も含めて許永中・会津の小鉄・同和の上杉に堂々と渡りおうて交渉した結果、これだけの金しか作れんというて銀行と交渉しまんのや。

ま、今の時代のこっちゃし、借金だらけのノンバンクなんて銀行のただのお荷物やさかい、銀行としては早いとこ処分してもらいたい筈やし、多少でも金が入ってきた方がええに決まってますわ。

ワシの考えやが、多分1~2割の金で話つくはずですわ。キョートファイナンスつぶしても誰も文句は言わんはずやし、金の卵のゴルフ場とワシの持っとる絵画数百点だけが手つかずで残りますのや。

それらが、林さんが社長就任してからの大切な仕事なんですワ」

 

ゴルフ場はキョートファイナンスの関連ゴルフ場、センチュリー滋賀のことで許永中はゴルフ場を増設し、会員も増やせば

 

「工事費や経費を差し引いて100億は残る。

ワシはそれの60%、残り40%のうち10%を井手野下さん、30%は林さんの取り分や」

 

と儲け話をし、「すごい話ですネ」と感心する林社長に

「キョートファイナンスは、ほんま宝の山でっせ。

ワシは自分が仕事を頼んだ人にはタグ働きをさせるようなことはようさせませんのや」

 

ロイヤル社の林社長はキョートファイナンスの代表取締役社長に就任し、ロイヤル社もキョートファイナンス第2位の大株主となりました。

 

林社長を窓口にして、石橋産業の取り込みに入った許永中はさらに大相撲をつかって更なる仕事にとりかかりました。

 

それは大阪市北区中崎の許永中の自宅と空手道場を訪問した林社長をして

 

「許永中がいた場所は、道場と称するところで、500坪ぐらいある敷地で入口の門はまるで城門のような造りですし、館の所までは豪華な松の木が植えられていました。

屋敷の中は豪華な檜造りの家で、大広間は30人以上がゆっくり会食できる広さがあり、目を見張る造りでした。

2階には10人ぐらいが入れるサウナ室と温水プールがあり驚きました」

 

と言わしめた場所でバブル期リクルートコスモスなどと組み、コリアタウンをつくるなどと言って、大規模な地上げをしたところでした。

 

そこには日本相撲協会境川尚理事長、日大相撲部監督で日本オリンピック委員会委員の田中英寿氏や関取など3人がいました。

 

その前で、「横綱を認定する熊本の吉田司家はワシのもんになっている」

という許永中は、国際オリンピック委員会副会長の金雲竜氏と昵懇の間柄で、自分も今度韓国のオリンピック委員に就任することになっている…などと述べて、2008年大阪オリンピック誘致計画に言及。

 

同オリンピックの目玉として、大阪に国技館と博物館をつくる構想を明らかにしました。

 

翌日、その国技館建設の場所として案内されたのが、JR大阪駅に隣接した国鉄清算事業団所有地でした。

 

7万坪以上はあるかと思われる広大な場所を指して、許永中は国技館のほかにアシアナ航空や全日空のホテル建設、三越デパートの進出話などを並べたてて、「ごっつい話でっしゃろ」と言いました。

 

今思うと現在のグランフロント大阪を指していて、大阪オリンピックも結局は実現しなかった訳ですから荒唐無稽な話ではあるのですが、当時は皆「大阪ドリーム」と思い込んでいました。

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3

許永中と石橋産業 その4