許永中事件その6 大阪国税局と解放同盟との密約

しかしこの新日本建設の役員は、他のマンションでも許可を取っていた仕事人であることが発覚し自治会長を解任されてしまいました。

そしてこのマンション計画は市民の運動が実り計画はストップしました。

新日本建設は大阪市内ではリクルート事件で知られるリクルートコスモス社の下請けとして地上げを担当したり、大阪府堺市では高層マンション建設の共同開発者になったりもしていました。

新日本建設はなぜ大事業者のマンション建設の許可取り業者になることができたのでしょうか。

それは、許永中会社代表とそのグループがイトマンを手中におさめるまでにのし上がってきた謎を解く鍵でもあり、新日本建設をはじめ許永中グループの中心企業が、暴力と桐喝で行政を屈伏させ、やりたい放題やってきたのは部落解放同盟に直結した大阪府部落解放企業連合会(大企連)や大阪府同和建設協会(同建協)加盟業者というのがありました。

解放同盟系の団体がどれだけの力をもっているか・・

例えば、新日本建設が加盟していた同建協は大阪の場合、部落解放同盟大阪府連の指導と協力のもと、解放運動への自主財源獲得の基盤として重大な役割の一端を果たす・・

という設立趣意書とともに1970年4月設立、部落内同盟員で構成される土木建設業者団体でした。

これには大阪府下だけでも400社以上が加盟しており、同和対策事業を独占、一般の公共事業である大阪府発注の土木建築事業の2割を受注するなど、大手ゼネコンの談合組織に匹敵するほどの力をもっていました。

 

そのメンバーの一つ新日本建設は、89年の1年間だけで公共事業を31億4千万円も受注。

 

イトマン疑惑の表面化で、許永中とグループ企業は、相次いで税務署に億単位の修正申告をしましたが、その額は許永中会社代表の12億円を含め、93億円にものぼりました。

事実上の脱税である巨額の申告漏れが、なぜ見逃されてきたのでしょうか。

 

それは解放同盟系業者は、税務申告はノーチェックで、事実上フリーパスという大阪国税局と解放同盟との密約が1968年1月に当時の高木文雄大阪国税局長と部落解放同盟中央本部、大阪府部落解放企業連合会=大企連との間に結ばれていたためでした。

 

これらを窓口として提出される白、青色を問わず自主申告については全面的にこれを認めるなどの七項目の確認事項があったのです。

もともと、許永中会社代表は、凶暴さで知られる大阪市内の解放同盟支部長付をしていたともいわれていて、その解放同盟といえば行政はもちろん、大手企業、マスコミも「差別者」のレッテルをはられ、糾弾されることを恐れて屈服、追従していました。

 

許永中グループの中核企業「新日本建設」には「部落解放同盟兵庫県連委員長だった故小西弥一郎が役員に入っていたこともありました。

 

河内長野市で東亜大学分校誘致問題を担当した市幹部の肩書は「同和対策室長」。

 

自治体をも食いモノにしてきた許永中グループの暗躍は解放同盟というタブーにつつまれた現代日本の特権団体が背景にあってこそ可能だったのです。

 

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1968年1月30日、部落解放同盟中央本部・部落解放大阪府企業連合会(企業連)と大阪国税局との間で、つぎのような7項目にわたる確認書が交わされていました。

 

大阪国税局と解放同盟との密約

  • 国税局としては同和対策特別措置法の立法化に努める。
  • 同和対策控除の必要性を認め、租税特別措置法の法制化に努める。その間の処置として、局長権限による内部通達によってそれにあてる。
  • 企業連が指導し企業連を窓口として提出された白、青色をとわず自主申告については全面的にこれを認める。ただし内容調査の必要のある場合には企業連を通じ企業連と協力して調査にあたる。
  • 同和事業については課税対象としない。
  • 国税局に同和対策室を設置する。出来るまでの措置として担当は総務部長、窓口は総務課長とする。
  • 国税部内全職員に対し、同和問題研修を行う。この際講師については、同対室及び解放同盟と相談して行う。
  • 協議団(70年国税不服従審判所に発展的に解消)本部長の決定でも局長権限で変更することもできる。

この大阪方式は翌69年1月23日の解放同盟近畿ブロックと大阪国税局長との確認で、他の府県にも適用することとなり、「執行の際には中央本部と相談する」「助成金についても継続審議する」とされました。

 

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許永中事件その1

許永中事件その2

許永中事件その3

許永中事件その4

許永中事件その5

許永中事件その4 伊藤寿永光元イトマン常務と協和総合開発

 

土地さがしを依頼し金を渡した「関西コミュニティ」の役員とは「関西新聞」の池尻社長でした。

 

そして公明党を除籍された有力市議は、佐生総一郎議員。

 

共通点は隠密訪韓の同行者ということでした。

 

「2千万円のカネが動いた。しかし共産党につぶされた」

 

といわれ、いまではまぼろしとなった東亜大学分校誘致問題について、河内長野市議会のベテラン市議の一人は

 

「もともとこの話は、隣接の富田林市の市会議員が上の方に言われて同市に持ち込んだものだ。しかし、うまくいかなかった。それで、今度は河内長野市の同じ会派の議員が動くことになり、同僚議員の親戚でもある業者の所有地をねらった。しかし、これも拒否された。それで、あることで困っていた市内の山持ちに土地交換をもちかけ、河合寺の土地でやることになった。なぜ、市会議員が訪韓に同行していたのか、あるいは、最初に市長と『関西新聞』を引き合わせたのかナゾが解ける。だから当時、某政党の大幹部もかかわっているといわれた」

 

「だいたい、大学を設置するには学校教育法にもとづいて文部省の許可がいる。外国の大学の分校を日本につくったなど例がない。この話は最初から無理があった。府のある部長も市に『外国の大学誘致なんかできない』と忠告したという。
結局、ダメということがわかり、急遽、知事認可の各種学校に切り換えた。それでもうまくいかないので、許永中が怒った。それをなだめるため、ホテルプラザでパーティーを開いた。東市長の勇み足に、地元の有力代議士も『バカなことをするな』と注意したという。いずれにせよ、一自治体のレベルを超えた奥の深い問題だった」

 

許永中がねらった河内長野市に、イトマン事件のもう一人の主役、伊藤寿永光元イトマン常務もゴルフ場進出をはかっていました。

 

東亜大学分校誘致話が市長の「白紙撤回」表明で、完全に行き詰まってしまっていた88年7月のことでした。

 

当時、伊藤元常務が代表取締役を務める名古屋市の「ウイングゴルフクラブ」が大阪府と地元河内長野市に提出した計画概要によると、予定地は同市加賀田の山林。面積130ヘクタールで18ホール。

 

名称は、「ウイング加賀田ゴルフクラブ」で、ゴルフ場の設計、施工業者は一部上場の「大末建設」でした。

 

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もともと予定地一帯は大末建設が20年近く前の1973年から75年にかけて買収。

 

ゴルフ場を計画したものの、自然破壊の大規模開発に厳しい基準でのぞんでいた当時の黒田革新府政のもとで、許可されずにきたものでした。

 

それが岸府政になって大規模開発優先に方向転換。

 

いわゆるリゾート法を背景にした第三次ゴルフ場建設ブームのなか新設基準が大きく緩和され、この年には府下3か所で許可されるという情勢でした。

 

なぜ伊藤常務が河内長野市へ進出をはかったのでしょうか。

 

それは「大末建設」との取引関係からとみられています。

 

たとえば、伊藤元常務の本体企業「協和総合開発研究所」は、この年の3月、東京都葛飾区の宅地を担保に、「大末建設」から極度額24億円の融資を受けていました。

 

会社登記簿によると、伊藤元常務の「ウイングゴルフクラブ」の設立は、88年5月。

 

府市へのゴルフ場開発計画書提出の2か月前であるところからウイングは河内長野市進出のためにつくられた会社でした。

 

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許永中事件その1

許永中事件その2

許永中事件その3

許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

 

大阪の南部、河内長野市でかつて韓国の東亜大学を誘致するため市議と市長が密かに現地視察に行っていました。

 

議員の質問などから、東亜大学の日本校予定地として同市河合寺地区の山林約9千坪がすでに買収されており、東亜大学の関係者が市を訪れ現地を視察。

 

同大学誘致の仲介者は、大阪の夕刊紙関西新聞で、計画は府の企画室と相談しながらすすめていることなどがわかりました。

 

さらに大学用地は、10万坪が計画されており、「資金は韓国から持ってくるというウワサがある」 という話まで出ました。

 

真相究明を求める議員の質問に東市長は、大学が韓国資本で設置されることを否定。

 

「日本国内で学校法人を設立しまず各種学校としてスタートさせ、将来は総合大学にしたい」

と答弁。

 

しかし、資金計画、設立発起人、生徒数など具体的なことになると、「わからない」 を連発しました。

 

一連の隠密訪韓の事実と不透明な誘致計画に議員全員協議会は大荒れとなりました。

 

その結果、「東亜大学の誘致は、白紙に戻しゼロから出発すべきだ」 との意見が大勢を占めました。

 

結局、隠密にすすめられていた東亜大学の誘致話は議会側の強い抵抗にあい、この時点で一頓挫してしまいました。

 

この後も東亜大学誘致問題は、不可解な出来事として議会ごとにとりあげられ「東亜大学は学園設立に必要な事務手続きもとらず検討資料の提供もない」という事態が続きました。

 

翌88年3月市議会で東市長は「ことしはじめ、相手に白紙に戻すよう申し入れ、了承を得た」 と言明。

 

これで、市役所をゆさぶってきた、東亜大学誘致問題は終息に向かうはずでした。

 

ところが現実はそうはなりませんでした。

 

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東亜大学誘致問題は発覚から「白紙」まであまりにナゾが多すぎたため、市民のなかから真相究明の動きが出たからです。

 

88年4月、同市加賀田在住の会社役員が、小原議長(当時) と東市長を相手取って、2回の隠密訪韓にともなう旅費、航空運賃など計16万8千800円の公金支出は違法であるとして、大阪地裁に返還を求める訴訟を起こしました。

 

会社役員は、同年8月には、

「議長は訪韓を議会にはからず、報告もしないなど公務とは認められない」

として、違法に支出した公金の返還を求める請求書を、市監査委員に提出しました。

 

この会社役員が起こした公金返還訴訟から、意外な話が飛び出しました。

 

訴状には、「被告小原が違法に職権を濫用して事務局長に命令して、支出命令書を作成させて公金を違法に受領したものであり、被告小原はこの事実を、事務局長に口止めしていたものと見え、議長を尋ねたが、不在の為に事務局長に『議長はどこや』と質したが、知らないと答えさせた。その後事務局長は違法を犯した事に耐えかねて、割腹自殺を計った」

と書いてありました。

 

事務局長の自殺は事実です。

 

「死人に口なし」でことの真相は不明ですが、小原議長の隠密訪韓費用の支出命令書を決裁したのは自殺した市議会事務局長だったことは事実でした。

 

もともと、小原議長と自殺した議会事務局長とは昵懇の間柄で、親密ぶりは市関係者のだれしもが認めるところで当人を課長職から市議会事務局長に引っ張ったのは小原議長と、公然と言われるほどの仲でした。

 

こうしたことから、一年前のナゾの自殺について「自殺する前、あることで小原議長のごくろうさん会パーティーがあったが、どうしてか議会事務局長が出ていませんでした。

 

だれしもが、変に思い

「本人は議長に辞表を出していた。しかし、小原議長は受け取らなかった」

といった話が住民訴訟を機に再びささやかれるようになりました。

 

不明朗な大学誘致問題として議会のたびごとに追及してきた日本共産党河内長野市議団も、88年に入って、深まる疑惑の解明のため本格調査に乗り出しました。

 

その結果、新たな事実が次つぎ発覚しました。

 

その一つは、東亜大学の河内長野市への誘致計画の経緯で東市長はそれまで議会に、誘致は夕刊紙の「関西新聞社」の斡旋と報告していました。

 

とくに、同社の当時専務であった池尻一寛氏とは、大阪府OBである市長が府庁在職中、池尻氏もまたNHK大阪府庁詰め記者(府庁ボックスキャップ)で当時から懇意にしていた関係から、と説明していました。

 

ところが、共産党市議団が入手した資料から東亜大学誘致話に後にイトマン事件で逮捕、起訴されることになる許永中会社代表が、直接かかわっていることが判明したのです。

 

共産党が入手した資料とは、東亜大学校総長から東市長と小原議長への招請状。

 

その招請状の文面をみると河内長野市への大学設立の目的は、在日韓国人の民族教育のための高等教育棟開設置にあり、「本学塾財団理事の一人である許永中氏の勧告に依り御指導を賜りたく御招請する」となっていました。

 

東亜大学校総長からの招請状は、市長は86年11月5日と87年5月8日の2回、小原議長は87年11月15日に、それぞれ郵送で受け取っていることもわかりました。

 

相手側の「招請」にもかかわらず旅費その他、市の公金持ち出しというのも不可解でした。

 

このうち、小原議長の2回の渡韓費用は、市議会旅費規定で16万8千800円とされていましたが、実際は航空券、ホテル代など20万1800円かかっていました。

 

差額の3万3千円はだれが負担したのか、これもナゾとして残りました。

 

訪韓時にはいずれも「関西新聞」の池尻専務が、案内役として同行。

 

87年2月、同年5月の訪韓には許永中も一緒でした。

 

もう一つ、だれしもが首をかしげるようなことが発覚。

 

86年11月の最初の渡韓に当時市議会教育民生常任委員長だった公明党の佐生総一郎議員が同行していました。

 

佐生議員はこの年の暮れ、市長代理の市幹部の2回目の訪韓にも、同じ公明党の吉川昇議員とともに同行していました。

 

公明党の有力議員が2度も、それも2人も渡韓していたので、ナゾは深まるばかりでした。

一方、東亜大学分校予定地とされていた同市河合寺地区の山林約9千坪も、不可解な動きをしていました。

 

登記簿などによると土地がもとの地主から動いたのは86年10月。

 

河内長野市に隣接した富田林市の業者が買収したことになって買収と同時に、大阪市内の金融機関が極度額1億7千万円の根抵当権を設定していました。

 

最初の隠密訪韓がある一か月前でした。

 

それが、再び動いたのは88年2月。

 

「関西新聞」の関係会社である「関西コミュニティ」に所有権が移転していました。

 

所有権移転と同時に、土地にはやはり、「関西新聞」グループの「コスモス」を債務者に、街金融の大手「アイチ」が、極度額5億円の根抵当権を設定していました。

 

それは市長が白紙撤回を表明する直前でした。

 

つづく

 

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