許永中と石橋産業 その13

 

それだけ許永中と亀井代議士の仲は深かったということですが、二人の関係が明るみに出たのは、90年5月のことでした。

 

イトマン事件の被告の一人で当時許永中のパートナーでもあった伊藤寿永光元イトマン常務が社長だったリゾート開発会社「ワールド・インペリアル・ウイング」が亀井代議士の地元、広島県庄原市でゴルフ場開発を手がけたことがありました。

 

この時、亀井代議士は、許永中、伊藤元イトマン常務と同行して住民を前にしてこのリゾート開発をぶち上げました。

 

許永中の出資していた同社の会長は、元警視総監の川合寿人氏でした。

 

許永中がイトマン株を大量に買い占めていたこの年の秋、亀井代議士は秘書名義で20万株のイトマン株を購入していました。

 

翌91年夏、イトマン事件が摘発され大阪地検特捜部が東京・平河町にあった許永中グループ企業「富国産業」名義の7、8億円はするといわれた高級マンションを家宅捜索、この部屋は一時期亀井代議士が許永中から提供されて事務所として使っていたところでした。

 

許永中グループの元顧問税理士、剣持昭司・元熊本国税局長はイトマン事件の公判で88年10月から91年5月まで亀井代議士の紹介で許永中の顧問税理士になったと証言しています。

 

のちに保釈中に逃亡した許永中が収監され、さらに田中弁護士も逮捕されたことから亀井代議士が事件に関与していたかどうかをめぐり永田町は大騒ぎになりました。

 

いずれにせよ、設立された「大阪アメリカンクラブ」の役員に就いたのは、許永中の関係者が主で、監査役の弁護士も多くがイトマン事件弁護団メンバーでした。

 

その中の一人が収監後再開されたイトマン事件公判で許永中の新弁護人に就任、その直後警視庁に許永中の逃亡を助けたとして犯人隠避罪で逮捕・起訴された大阪弁護士会の兼松浩一弁護士でした。

 

大阪アメリカンクラブは結局、工事費未払いで途中で挫折。

 

「大阪オリンピック」の話が出た頃、許永中は林社長を大阪市北区天神橋六丁目の交差点のところにある土地に案内しました。

 

土地の広さは約2000坪。

 

ここに、さきに許永中が道場の近くにつくったパチンコ店・有恒クラブにならって、新しくパチンコ店をオープンさせる計画を披露しました。

 

「用地買収額は50億~60億円で、20億円で立体駐車場もつくれる。完成したら利息も含めて引き取らせてもらう」

 

などと言って若築建設に出資を持ちかけました。

 

96年10月ころ、京都府船井郡園部町にサーキットをつくる話もでました。

 

田中弁護士が

「京都の園部町に開発許可寸前の物件がある。『神林隆夫』という人物がいて、彼がすべて5年かけてやってきた物件だ。設計・管理は鈴木亜久里がやっている」

それで、そのF1レーサーの鈴木亜久里、田中弁護士、林社長でゴルフに出かけ、サーキットの立地や条件の良さを説明されました。

この話には山段氏も加わり、「園部町長の兄弟が(当時自民党総務会長だった)野中広務だ。話はかたいし、場所も最高だ。成功間違いなしだ」

許被告も「サーキットだけでなく、航空ショーもからめれば成功間違いなしだ」

若築建設の担当者が現地調査に赴き、「神林隆夫」という人物に説明を受けました。

 

それによると、「完成保証は若築がする。山段が仕切って、農協と明治生命から融資を受けるようにしてあるが、完成までの間60億の融資に対する債務保証が必要。工事代金は40億かかるが、それは自動的に若築に入る」という条件だった。

 

明治生命と会談した結果、事業母体が弱小で明治生命に積極性が感じられなかったことから債務保証はできないということになりました。

 

井手野下氏の話で「自分が、住友信託銀行にいたころの知人に五十鈴建設の専務がいる。五十鈴建設のために一人で苦労している。現オーナーは病床に臥せており、一族は会社のために何の役にもたっていない。若築と業務提携できないか。そうすれば五十鈴は立ち直れるし、新井組との合併でもうまく行った時には、大いに役に立つはずだ。そのためには 『みどり銀行(旧兵庫銀行)』 の株式を格安で売り渡せる」

若築建設が支援に入ったことを示すため、五十鈴建設が仕入れた土地を若築建設が建築するという条件で買いました。

しかし、五十鈴建設は翌97年3月倒産。

 

96年7月ごろ、許永中から大阪の不動産業者・三優実業開発の福川拓一社長を紹介されました。

福川社長は、当時山口組ナンバー2の宅見組の企業舎弟でのちに許被告の逃走を助けたとして犯人蔵匿罪で警視庁に逮捕された人物でした。

 

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許永中と石橋産業 その1

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許永中と石橋産業 その12

許永中と石橋産業 その12

 

大阪オリンピックの機運が盛り上がってきたころ許永中はこう言いいました。

 

「大阪オリンピックを実現するためには、世界からⅤIPに準ずるIOC委員たちを招待する場所が必要となる。

そのために帝国ホテル大阪のインテリジェントビル(OAPタワー)の最上階38階、37階、36階に場所を借りてある。

発起人には著名人が名前を連ね、個人300万円、法人400万円の会員権システムにする。

若築建設が工事の旗振り役になり、大林組が下請けになるが大林にもプライドがあるから、発注者を若築建設にする。

会員権は工事が完成してからの方が良いので、若築建設の建て替え工事にして、その裏担保として岐阜県の繊維会社「カワボウリカ」の手形を石橋産業に入れる。

会長には石橋社長、専務は林社長、社長には川島カワボウリカ社長がなる。」

 

 

こうして96年6月、大阪アメリカンクラブが設立されましたが、その前に許永中は林社長にこう告げました。

 

 

「アメリカンクラブの会長になったので石橋さんに5億円程度出してもらうよう言ってほしい。川島に対して、それらしい出資をするようにしてもらいたい」

 

石橋側から4億9000万円が振り込まれ、その対価として川島社長から手形を預かったものの、期日に落とせず1年後の97年10月までジャンプしたといわれています。

 

「大阪オリンピック」に関して3月中旬、JR大阪駅北口にある7万坪の国鉄清算事業団の土地に案内した許永中はこう説明しました。

 

「国技館だけではこれだけの土地はこなしきれないので、大型ホテルが2つ、3つ必要になるし、ワシが所有している吉田司家の貯蔵品をおさめる相撲博物館をつくろうと思ってます。

それから、韓国領事館をベースに大阪の各国領事館を集めたビルも作ろうと思うとるんですわ。

ホテルの方は全日空が井手野下さんの話でも、随分ほしがっとるように聞いとりますので、亀井静香先生に頼んでさっそく全日空の普勝清治社長に会うてもらわんとあきませんナ」

 

こうして後日、東京築地の高級料亭「吉兆」で亀井代議士、全日空の普勝社長、石橋社長、林社長の4人が会食しました。

 

この会食は会談の数日前に、亀井代議士の平河町の事務所に許永中が石橋社長を案内し段取りしました。

 

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許永中と石橋産業 その11

許永中と石橋産業 その11

若築建設から借りた80億円の返済期日である9月末近づいてきました。

 

それも当初7月末だったのを2か月延長していたのです。

 

「中間決算の時期が迫っているので、若築に返済しなければ大変なことになる」

 

と心配する石橋会長に、許永中は「心配いりまへん」と自信満々に返事をしていましたが、「京都信金の具合が良くないようや。もう少し待ってくれ」と言ってきました。

 

そして、どうしてもカネをつくれというなら、石橋産業保有の新井組株250万株を運用して30億円ぐらいつくれると言いました。

 

石橋産業側は、中間決算の時期が迫っていたためこれに応じることにしました。

 

田中森一護士が預かり証を出すことになり、それをもとにして許永中側に新井組株250万株を渡しました。

 

許永中のパチンコ会社である有恒クラブから、9月30日10億円、10月1日5億円、同月2日5億円の計20億円が送金されてきました。

 

この時点で石橋産業側に筆頭株主になるべき大量保有の新井組の株券は入っておらず、許永中が担保に差し入れていた別の新井組株券を取り戻され一株も残っていない状態となりました。

 

そして許永中の側近である葡萄亭ワンセラー尾崎取締役と井手野下氏が石橋産業にやってきて、同社の株券や財務内容などを根掘り葉掘り聞いた後、「林社長をはずす」話をしたといわれています。

 

驚いた林社長が許永中に問いただすと顔を真っ赤にして、「女のクサッタような言い方するナ。アンタはオレのやり方にあわせれば、それでいいんだ」といいました。

 

許永中側と石橋産業の窓口になってきたロイヤル社の林社長との間がギクシャクしはじめたのはこのころからです。

 

許被告の側近の一人である葡萄亭ワインセラー田中社長から、「20億送金したが、1億運転資金がショートしている。石橋さんに言って、1億、2週間だけ貸してもらえないか」と電話がありました。

 

林社長はこれに、「冗談じゃない、80億、9月末の時点で永中氏が石橋に必ず返済すると言っていたのに、それも株券を提供させて20億しか戻ってないのに、どうやって石橋に言えるのか」と激怒しましたが結局は1億円送金しました。

 

しかし2週間経っても返済はありません。

 

さらに数日後、許永中の事務所に呼ばれそこにいた石橋社長らの面前でも、「こ奴が、たかが1億ぐらいのことで、ワシんとこの若い者にすぐ返せと抜かしよるんですワ」などと言いました。

 

この日は衆院選挙の最終日で、石橋社長は許被告に言われ井手野下氏に連れられて、元首相の竹下登氏に会うため、ヒルトンホテルに出かけました。

 

この件もあって林社長は、許永中に対する不信感を募らせ、新井組の株式買い取りがダメになった場合、振り出したロイヤル社の約束手形の回収はできるのだろうかなどと、不安な思いがよぎりました。

 

それもキョート社社長に就任すれば、解決されるだろうと自分を納得させました。

 

石橋社長とその義兄の林社長は、5月にも許永中の計らいで、東京・向島の高級料亭で竹下元首相と会食。

 

当時の建設大臣である中尾栄一代議士と建設事務次官ら高級官僚十数人がいたこの席で、竹下元首相は「君たちの役どころは素晴らしい」と讃えたといわれています。

 

この竹下元首相に限らず、許永中が石橋産業側に用意した舞台と人物は、どれもこれも大がかりなものでした。

 

後の「陳述書」で林社長は、許永中が次から次へと持ち出してきた人物と豪華な舞台に自分を見失い、この時は人をだますテクニックだとは気づかなかった、と振り返えっています。

 

 

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