許永中と石橋産業 その12

 

大阪オリンピックの機運が盛り上がってきたころ許永中はこう言いいました。

 

「大阪オリンピックを実現するためには、世界からⅤIPに準ずるIOC委員たちを招待する場所が必要となる。

そのために帝国ホテル大阪のインテリジェントビル(OAPタワー)の最上階38階、37階、36階に場所を借りてある。

発起人には著名人が名前を連ね、個人300万円、法人400万円の会員権システムにする。

若築建設が工事の旗振り役になり、大林組が下請けになるが大林にもプライドがあるから、発注者を若築建設にする。

会員権は工事が完成してからの方が良いので、若築建設の建て替え工事にして、その裏担保として岐阜県の繊維会社「カワボウリカ」の手形を石橋産業に入れる。

会長には石橋社長、専務は林社長、社長には川島カワボウリカ社長がなる。」

 

 

こうして96年6月、大阪アメリカンクラブが設立されましたが、その前に許永中は林社長にこう告げました。

 

 

「アメリカンクラブの会長になったので石橋さんに5億円程度出してもらうよう言ってほしい。川島に対して、それらしい出資をするようにしてもらいたい」

 

石橋側から4億9000万円が振り込まれ、その対価として川島社長から手形を預かったものの、期日に落とせず1年後の97年10月までジャンプしたといわれています。

 

「大阪オリンピック」に関して3月中旬、JR大阪駅北口にある7万坪の国鉄清算事業団の土地に案内した許永中はこう説明しました。

 

「国技館だけではこれだけの土地はこなしきれないので、大型ホテルが2つ、3つ必要になるし、ワシが所有している吉田司家の貯蔵品をおさめる相撲博物館をつくろうと思ってます。

それから、韓国領事館をベースに大阪の各国領事館を集めたビルも作ろうと思うとるんですわ。

ホテルの方は全日空が井手野下さんの話でも、随分ほしがっとるように聞いとりますので、亀井静香先生に頼んでさっそく全日空の普勝清治社長に会うてもらわんとあきませんナ」

 

こうして後日、東京築地の高級料亭「吉兆」で亀井代議士、全日空の普勝社長、石橋社長、林社長の4人が会食しました。

 

この会食は会談の数日前に、亀井代議士の平河町の事務所に許永中が石橋社長を案内し段取りしました。

 

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許永中と石橋産業 その11

許永中と石橋産業 その11

若築建設から借りた80億円の返済期日である9月末近づいてきました。

 

それも当初7月末だったのを2か月延長していたのです。

 

「中間決算の時期が迫っているので、若築に返済しなければ大変なことになる」

 

と心配する石橋会長に、許永中は「心配いりまへん」と自信満々に返事をしていましたが、「京都信金の具合が良くないようや。もう少し待ってくれ」と言ってきました。

 

そして、どうしてもカネをつくれというなら、石橋産業保有の新井組株250万株を運用して30億円ぐらいつくれると言いました。

 

石橋産業側は、中間決算の時期が迫っていたためこれに応じることにしました。

 

田中森一護士が預かり証を出すことになり、それをもとにして許永中側に新井組株250万株を渡しました。

 

許永中のパチンコ会社である有恒クラブから、9月30日10億円、10月1日5億円、同月2日5億円の計20億円が送金されてきました。

 

この時点で石橋産業側に筆頭株主になるべき大量保有の新井組の株券は入っておらず、許永中が担保に差し入れていた別の新井組株券を取り戻され一株も残っていない状態となりました。

 

そして許永中の側近である葡萄亭ワンセラー尾崎取締役と井手野下氏が石橋産業にやってきて、同社の株券や財務内容などを根掘り葉掘り聞いた後、「林社長をはずす」話をしたといわれています。

 

驚いた林社長が許永中に問いただすと顔を真っ赤にして、「女のクサッタような言い方するナ。アンタはオレのやり方にあわせれば、それでいいんだ」といいました。

 

許永中側と石橋産業の窓口になってきたロイヤル社の林社長との間がギクシャクしはじめたのはこのころからです。

 

許被告の側近の一人である葡萄亭ワインセラー田中社長から、「20億送金したが、1億運転資金がショートしている。石橋さんに言って、1億、2週間だけ貸してもらえないか」と電話がありました。

 

林社長はこれに、「冗談じゃない、80億、9月末の時点で永中氏が石橋に必ず返済すると言っていたのに、それも株券を提供させて20億しか戻ってないのに、どうやって石橋に言えるのか」と激怒しましたが結局は1億円送金しました。

 

しかし2週間経っても返済はありません。

 

さらに数日後、許永中の事務所に呼ばれそこにいた石橋社長らの面前でも、「こ奴が、たかが1億ぐらいのことで、ワシんとこの若い者にすぐ返せと抜かしよるんですワ」などと言いました。

 

この日は衆院選挙の最終日で、石橋社長は許被告に言われ井手野下氏に連れられて、元首相の竹下登氏に会うため、ヒルトンホテルに出かけました。

 

この件もあって林社長は、許永中に対する不信感を募らせ、新井組の株式買い取りがダメになった場合、振り出したロイヤル社の約束手形の回収はできるのだろうかなどと、不安な思いがよぎりました。

 

それもキョート社社長に就任すれば、解決されるだろうと自分を納得させました。

 

石橋社長とその義兄の林社長は、5月にも許永中の計らいで、東京・向島の高級料亭で竹下元首相と会食。

 

当時の建設大臣である中尾栄一代議士と建設事務次官ら高級官僚十数人がいたこの席で、竹下元首相は「君たちの役どころは素晴らしい」と讃えたといわれています。

 

この竹下元首相に限らず、許永中が石橋産業側に用意した舞台と人物は、どれもこれも大がかりなものでした。

 

後の「陳述書」で林社長は、許永中が次から次へと持ち出してきた人物と豪華な舞台に自分を見失い、この時は人をだますテクニックだとは気づかなかった、と振り返えっています。

 

 

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許永中と石橋産業 その10

許永中と石橋産業 その10

 

田中弁護士から林社長に株の占有率が30%を超える部分である135万株についてロイヤル社とは違う別の受け皿会社をさがす必要があること、それが決まるまでの間、先に振り出したロイヤル社の2通の手形の一つ、72億4950万円の手形を、48億3300万円と24億1650万円の2通に分けるよう指示されました。

 

 

そして、そのうちの24億1650万円の手形については、「適当な受け皿会社が決まるまでの間、ワシが預かるようにするから、いずれにしてもその預かり証もワシが発行するから」と言ってきました。

 

さきに交わした新井組株とロイヤル社振り出しの額面総額約203億円交換の協定書は、書き換える必要があるとして、それも田中弁護士が預かるということになりました。

 

96年7月14日、ロイヤル社が新井組株985万株を所有したという大量保有届け出書が関東財務局に提出されました。

 

もちろん形式だけのことで、石橋産業側には新井組株は渡っていません。

 

その直後の7月下旬から雲行きがおかしくなってきました。

 

さきのとりあえず若築建設から借りて工面した60億円の返済期日が月末に迫ったことで、許永中が9月末まで2か月間の延期を申し出てきたのです。

 

さらに許永中は「田中先生がこれ持ってきてな、どうしても金が急にいるといわれとるんや。先生が金作らないかん相手言うたら宅見の頭のコトや」と言って、銀座の有名画廊がヨーロッパのオークションで落としたという、「40億円ぐらいはした」というポール・セザンヌの静物画を見せ、石橋産業が持っていた新井組株150万株との交換を持ちかけてきました。

 

 

当時、新井組株は1800円前後で総額おおよそ27億円でした。

 

 

この取引に応じることにしたものの、後日石橋産業側がこの絵画を鑑定したところ、時価2000万~3000万円程度のものだといわれました。

 

 

8月に入ると林社長は新井組株を取得する対価として振り出したロイヤル社の約束手形の書き換えを要求されました。

 

ちょうどその時期、京都信金で役員の使い込み事件や内紛劇があり、資金調達ができず銀行団に説明するのに困るというものでした。

 

林社長は振り出していた2通の手形の支払期日は白地にしていたところから、疑問をもちつつも応じる事にしました。

 

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