昭和時代のエセ同和団体

エセ同和団体とは差別意識がはらむ「こわい」という感情を利用して、行政機関や企業をゆさぶり、金や利権を手にする団体のことです。

必ずしも同和地区出身者のみで構成されているとは限らず、被害を受けた方は「同和の者から脅された」という認識を持ってしまい、部落差別の解消に真摯に取り組んでいる人々にとっては有害な存在でもありまりました。

これらの実態は会社ゴロ、ブラック・ジャーナリスト、右翼、暴力団、総会屋などで中央官庁や地方自治体に圧力をかけて、市街化調整区域からの解除、農地転用の許可、公有地の払い下げを工作したり、企業、行政への商取引や機関紙購読の強要、金融機関からの融資引き出しに一役買ってのリベートなどがあります。

1984年(昭和59年)東京女子医大病院で射殺された尾崎清光日本同和清光会最高顧問の行動はその典型例でしたが、入院中を射殺された状況の異常さや捜査が難航し、結局未解決のまま時効を迎えた背景の複雑さに、暗部を見ることが出来ます。

「同和へのカネは返さなくていい」と、借りた金、使用料の公然の不払いに、多くの金融機関や公共事業体が難儀しました。

アラをさがして金を脅しとったり、交通事故の賠償金や生命保険料の上乗せを保険会社に要求、企業トップとのインタビューを迫って掲載機関紙を大量に送りつけたり等の活動もしていました。

同和問題は国民的課題だから、表向きは断ることが出来ず、マスコミもタブー視しているのでテーマにとりあげることはなかったのです。

そしてそのうちかつての整理屋が同和団体を名乗ってくるようになりました。

昭和の終わり頃には総会屋、えせ右翼、えせ同和、整理屋が入り乱れて一体何屋なのか分からない状態になっていました。

差し出された名刺を見ると「〇〇政治経済研究会」等の名称が多用されたのもこの頃でした。

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昭和時代の整理屋

その舞台は昭和50年に設立された名古屋市に本店を置くスポーツ用品の小売販売会社でした。

資本金500万円の同族会社で、昭和57年ごろからディスカウントショップを相ついで出店し、派手な安売り広告をして世間の注目を浴びていました。

ところが、その内実は店舗拡張に伴う運転資金の逼迫と、スキー用具等の季節商品の売り上げ不振にあえいでいたのです。

正規の金融機関からの莫大な借り入れのほかに高利金融業者からの借り入れが相つぐようになりました。

この高利の借り入れについては、社の内外で常務と呼ばれる人物が取り継ぎをしていましたが、こうした借り入れについてはほとんど、社長、専務、あるいは親族の個人財産が担保として差し入れられていました。

そして社長と専務は、近い将来会社が倒産必至の状態となったため、東京の弁護士の紹介で名古屋の弁護士を訪ねて対応策を協議、自己破産によって整理するほかないという結論になり、極秘裏に準備を進め、不渡りの予想される日までに破産の申請と財産保全命令の申請をすることにしました。

負債総額が20億円で、そのうち高利の借り入れが8千万円、資産は12億円で、うち在庫商品は簿価で7億円というような状態でした。

ところが、そのあと社長も専務も音信不通になってしまいました。

そこで、整理に対していろいろの困難が予想されるということで、名古屋弁護士会の民暴センターのベテラン弁護士3名が、この事件の解決にあたることになりました。

ところが翌日早朝、高利貸との間をとり持っていた常務が、各店舗の鍵を担当者の自宅を回って借り出したです。

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そして、高利金融業者、あるいは仕入れ先の意を受けた暴力団や事件屋が、この男の手引きによって、トラック7台で開店前に在庫商品の持ち出しを開始しました。

こうして主要商品、ゴルフボールやゴルフセット等、数時間のうちにその7店舗から全部搬出し終えました。

事情を知った他の債権者も次々に押しかけて、取りつけ騒ぎになったのですが、このうち3店舗ほどには暴力団の名前が張り出され、戦闘服姿の暴力団員が占拠してしまいました。

社長とか専務は、弁護士と密室で破産手続の準備を進めていたのですが、こういう実情を知らされた段階では、もうほとんど商品が運び出されてしまっていたのです。

各店舗の催業員は、事情もわからずただ見守るばかりで、本社には多くの債権者が結集して、不穏な状態となっていました。

そこで弁護士らが、本社での債権者との対応、重要書類の確保、従業員に対する説明と指示、各店舗の状況の確認に奔走しましたが、各店舗が離れた場所にあったため、処理に長時間を要したうえ、従業員は弁護士とは初対面で、幹部とも連絡がとれず、さらにこのころから社長も姿をくらましていたのです。

従業員は完全に動揺し、対応能力を失ったばかりか、自分の労働債権の確保とか個人的に関係の深い得意先の利益の確保に奔走するありさまでした。

社長は、所在不明でしたが探させてみると、このような事態にショックを受けて倒れ、弁護士との連絡もつかない状況でした。

こうして、結局会社の資産は整理屋に全部してやられたのです。

整理屋というのは、暴力団が自ら整理屋になったり、あるいはまた高利金融業者が整理屋になる場合もあれば、表向きカタギでもバックに暴力団とか高利金融業者がついている整理屋もいます。

そして、たいてい経理の専門家、あるいは法律などの専門家がヒモづいています。

当時、日本一の整理屋といわれた山富の専務は、有名な大学の法学部出身でした。

また整理屋の幹部に、法律のわかる者、あるいは司法試験くずれ、弁護士が関与していることも多くありました。

そして傘下の多数の高利金融業者をアンテナにして、倒産間近い企業をかぎつけます。

一つの企業が瀕死の重傷を負っている・・例えでいうとサバンナで野獣が倒れたとします。

すると死臭あるいは血のにおいをかぎつけて、複数の整理屋がハイエナのように押しかけてきます。

そこで複数の整理屋の主導権争いでは、まず倒産企業の代表者の身柄を確保して、商業帳簿とか代表者印を手に入れた者が勝ちなのです。

身柄の確保とか帳簿、印鑑の確保ができなかった整理屋は、勝った整理屋から涙金をもらってすごすごと引き揚げていくという構図になっています。

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許永中と石橋産業 その2

ロイヤル社の林社長によれば石橋産業では74年、先代の石橋建蔵氏が他界したことをきっかけにして、異母兄弟の確執が表面化しました。

 

石橋産業グループの一つで上場企業だった中堅ゼネコン若築建設の専務の座を追われた異母兄弟の石橋克規氏とグループ代表の石橋浩氏とは激しく対立しました。

 

95年10月頃「あんたとこの義兄弟の石橋さんのことなんじゃが、石橋さんの兄弟に克規さんておるじゃろうが?実はどうもこの人がヤクザにだまされて石橋産業の株を沈められてしもうたようだが、ついては石橋さんに会わせてもらえんじゃろうか~」

 

という電話が広島訛りのある男から入り、

 

「実は、克規の生活の面倒を見ていて、株券を回収してやった人がいる。このまま放置しておけば、石橋産業の株式もまたどこへ沈んでしまうかもわからんでしょうが~」

 

などと言ってきました。

 

翌11月中旬、石橋産業の石橋浩社長とロイヤル社の林社長の二人は、都内のホテルで電話をかけてきた男に会いました。

 

この男は、東京の暴力団・住吉会系の総会屋で、もう一人の男は、広島の暴力団・共政会関係者の身内でした。

 

二人が出かけた会談場所のホテルのロビーには、一目で暴力団組員とわかる男が十数人、周りの席に座っていました。

 

そこで、克規氏の面倒を見ているという男は同氏の生活費と株券回収費用として6000万円を要求。

 

しかし、株の買い戻しの件はあいまいにしたまま株を預けている人を石橋産業に連れていくという話になり、そこに現われたのが田中森一という弁護士でした。

 

田中弁護士は71年検事に任官し大阪・東京両地検の特捜部検事を務め、撚糸工連事件など大型経済事件の捜査に携わり、特捜のエースと呼ばれた人物でした。

 

88年退官した後は大阪で弁護士を開業。

 

 

検察捜査の手の内を熟知した弁護士としてその方面では知られていて、国際航業株事件の小谷光浩氏、射殺された山口組ナンバーツーの宅見勝若頭、そして末野興産の末野謙一氏などの顧問先となっていました。

 

石橋産業にあらわれたころには許被告と彼は盟友関係にあり、この席で石橋社長が「いくらで売ってもらえるか」と問い詰めたところ、田中弁護士はおもむろに株の預かり証を取り出し「この様に株券の方は私が責任を持って預かっている。帰ってこちらの方も検討する」と言いました。

 

裏に暴力団が関与していると察知した石橋産業側はロイヤル社の林社長の紹介で暴力団・住吉会理事長に相談、石橋産業側にたって住吉会の人間が交渉に立ち会うことになりました。

 

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許永中と石橋産業 その1