許永中のブレーン 岡本醇蔵 その3

前回からのの続きです

「三豊恒産は銀行からの借り入れの元本返済はむろん金利払いもストップしとった。


それで競売にかけられとる。


でも毎月、3500万円ぐらいビルの賃料あったんや。


それを、会社の社員の維持費に、各ビルのテナントのサービスに充てとった。


掃除からエレベーターから何から細かいことに毎日、カネかかる。
下請けの業者に払わないかん。管理業務や。


下水や電気止まったらどうしょうもないからな。


そならいちいちそのたびに銀行に行って、代表印を支払い用紙に押して、会社の通帳からそれら費用払うのたいへんやから、経理に『個人で普通預金口座作って、個人の印で支払いできるようにしとかんかい』と。


それで『サンポウコウサン+個人名』いう銀行口座作った。


警察がワシを特別背任か横領でいこうと捜査しとるのは知ってた。


ワシが新宿のビルを45億円で売って、長銀には30億円しか払うてない。


六本木でも銀行には10億円だけ払って、ワシが20億円ちょっと取っとる。


ほやけど、ワシはカネ借りる時、みな役員議事録でちゃんと借り入れ書作成して、個人保証もして、印鑑証明書も付けてちゃんとしてまんね。


KKC(経済革命倶楽部)からの16億円の借り入れにしたって、岡本の個人保証もつけとる。


議事録で岡本に平成12年まで年2%で貸し付けるいう金銭貸借契約書作って、役員会議事録で手続きして、三豊恒産から岡本に貸しますと。


ただし、KKCに対して支払い期日がないのは、金利として赤坂ビルをKKCに全フロア貸し与えると。


借り主側のKKCの都合により、『カネ返したいうて、すぐビルを明け渡すことできへんので、ひとつ無期限に借りてください』と。


互いの代理人弁護士同士で、ちゃんとこう契約しとった。


ワシの三豊恒産の共同代表取締役に就任する前には、東京のそのスジが三豊恒産の一連のビルを占拠してた。


で、ワシが代表になって半年ぐらいで、それが猫の子一匹おらんようになったから、警視庁はなおさら苦々しかったわけや。


西のもんがやってきて東京のヤクザを追い出したから、ごっつう腹立てとるねん。


逮捕された組長らとの関係、ワシは企業舎弟じゃない。


友人や。


それに1年半ぐらいかけてビル6、7棟売って。


占拠していた成南住宅ともちゃんと和解とって、書類形式が揃うとる。


80億円ぐらい返済もしたんかな。


警察でも調べたけど、書類は揃うとってもう岡本逮捕はどうにもならへん。


そこで、銀行に普通預金の差し押さえさせ、それの強制執行妨害でやった。


この適用、日本で初めてや。この罪状使うの。


これだけワシ、うっかりしとった。

ただ、これは最高刑でも5年だけや。警視庁は悔しいけど、岡本に縄かけるには、他にやりようがなかったというのが真相や」

つづく

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許永中のブレーン 岡本醇蔵 その2

前回からの続きです

「許永中と初めて出会ったんは学生時代や。彼は大阪工大で、学年でワシより四つ、歳で五つ下かな。あれ、大阪工大の柔道部やったんや。

本当、強かったで。大学は中退するけどな。

当時、ワシは梅田のあるところを地盤にしてる組で、パチンコ屋のお守りしてたんやけど、そこでパチプロ集めて稼がせてピンはねしとったのがあいつや。

ほやけど、当時は顔知っとるだけでつき合いはなかった。生きざまがちゃうからな」


「ワシら、パチプロみたいな相手するわけあらへん。パチンコ屋からカネ取ろと思ったら、店員呼んで

『コラ、鍵貸せ!』

いうて、鍵外して奥に積んどる玉持って、パーツと換金して行きやええんやから。パチンコ屋で打って稼がへん」


「ワシがアーデルホームにいた頃、いっぺんワシのとこへな、許永中は部落民やないけど、韓国人も差別されてた時やから、まあ早ういうたら無理難題をいうてきた。

許永中は大阪では元ヤクザで、部落の支部長やってたある人と仲良くしててな。

ワシがアーデルホームにおるん知らんでや。

それでワシが

『何が部落や!』

いうたら、許永中は

『えらいすいません。なかったことにしておくんなはれ』

いうんで、

『お前、何しに来たんや』と。

まあ、同じ新地でいつも飲んどるし、ほな、皆で一緒に飲みに行ったらええがなと。


彼ちょっとその時、経済的にしんどい時やった。


集金したら右に出るもんがおらんあるヤクザに6、7億円借金してて面倒やった。


それで、

『ワシの手形使うたらええわ』って。


その代わり、許は大淀建設を

『それだけの値打ちないけど引き取ってください』と。


『いらんがな、そんなもの』

いうたら、

『それじゃ、ワシ(の立場)が・・』
いうから、

『ほんなら、置いとけや』と」


「許が大きいなったのは日本レースの事件や。

人はいろんなこというけど、許永中が経済界でいちばん崇拝しとったのが東邦生命の太田清蔵さんや。


この人にほんまにここ一番の時に助けてもろたんや。

この時、助けたのはワシやけど、ほんまの意味でナニしたんは太田さんやから」


「あれは最初、太田清蔵が許永中に依頼し、困り果ててワシのとこに相談に来たんや。

三洋興産いうて、当時、東京ではいちばんの仕手筋に53%も株持たれて、経営権の交代請求出してきた。

乗っ取りやんか。

当時日本レース社長だった山野愛子に何とかしてくれいわれても、総資産が250億円 で借り入れ金が17億円しかないんじゃ、東京のボンクラが目先効かして当然や。


許永中が

『誰も助けようおまへんやろ』

いうから、

『お前、考えてみいや。処女やから三洋興産は来とんねん。これがズブズブやったら手ださんやろ。手形切らんかい。200億円切れ』と。


すると、『何で切りまんねん』いうから、

『お前、ヒューマンソサエイティーいう宗教団体あるやろ。 ここと三井建設がフィフティー、フィフティーで神戸に100万坪の山持っとる。あれええやないか。あれ買わんかい』と。」


「保釈中の失踪は本人なりの考えでやってることやろ。イトマン事件は、ワシは許は執行猶予取れる流れ違うかなと思うとる。

絵画は、あれ売買とちゃうからな。

本来、許永中個人の借り入れのもんやから。
あれ、500億円で許永中がイトマンに絵画を売っとったら問題やけど。
ただ、イトマンが売ったことにしてくれと頼んで、後で売買のかたちにしただけのことやんか。

ほやから、横領したことにならへんから。
ただ借りたカネ返さんだけのことやから。
そんなことで有罪にしたら、カネ返せん日本人は皆、バクられんといかん」


「イトマン裁判の見通しがついたから、本人の持ち前の気性で前向いて走ったやろうけど、今回の石橋産業の件な、これとかな、偉い人とのつき合いを大事にして、これはやっぱり本人のこっちゃから、絶対にそこらワシらの持ち合わせしているもんより遥かに器量持っとるから、警察にしゃべることないがな。


ところが、やっぱり日本を動かしているような人とのつき合いも今日あるわけだから、許永中本人から身を引くと。


自分が言わなくても、偉い先生は警察の厳しい聴取に対して案外脆うて言うてまうかも知れん。


自分が捕まったら、その参考人として先生が引っ張られる。
やっぱり日本の権力もそんなバカじゃないからな。


そういう場面を作ることが嫌やから身を隠したいうのが本人の本心やろ。
ワシは仕事手掛けたら最後までやる。


彼の場合は仕事一つ網かけて、カネがやってきたら後は皆、好きにしたらええと。


本人が聞いたら気悪くするけど、ワシは自分は事業家やと思うとるし、許は虚業家いうたら怒りよるけど、実業と虚業の違いや。


一般の人が分かるようにいうたらな。

本当は全然違うけどな。本人にしたら、

『そうせんと数多くの仕事、大きな仕事ができんでしょう』と。

いつもワシにそう言うとった。


それはお前の考えやと。


ワシはやっばり仕事いうのは一度手掛けたら最後までやって、ゼロから百にして、それが損するか得するかは問題外で、要は仕事いうのはそういう事やろと。


スタート切って、向こう岸に着いたんが仕事やと。
これは自ら持った人生観の違いやからな。
そやから一緒に許永中と仕事したことない。


それでも互いに無理してカネを動かさんならんことしとったから、名前連ねて手形裏書きして。
そんな協力したぐらいや」 


「殺しても死ぬ男と違う。細心のもん持ってるから、ワシの何倍も。ワシも一般人よりは細かいこと気つけるけど、ワシかて面倒臭いぐらい細心。

たいしたもんや。だから、時効の7年経った時、姿見せるかもな」

つづく

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許永中のブレーン 岡本醇蔵 その1

今から20年ほど前、とある雑誌のインタビューに岡本醇蔵氏が答えている一部です。許永中氏のことを語っている部分は次回の記事になりますが、今回は花の応援団の箇所が興味深いので引用しました。

「花の応援団」の主人公は確かにワシなんやけど、青田赤道いう名前の奴は阪南大学におった。

彼の弟は近大におって、ワシが4年の時1年やった。

当時、ワシはびっくりするほどうるさいいうより有名やったから、ワシの名を使うのは恐れ多いということで、その兄弟で話して、このちょっととっぼい兄貴の名を表に出したわけや。

だから、あの話は全部、本当の近大応援団のことや。

阪南大の応援団なんかまだ当時できて4,5年やったから、歴史も伝統もあらへん。

漫画が出て、すぐ日活映画から話がきたけど、それやったら守銭奴になると反対し学生の出演も断った。

註(76年、同名で映画化。監督・曽根中生。好評につき、翌年にかけ『役者やのォー』 『男涙の親衛隊』と、第3弾まで制作された)

でも、『600万円寄付させてくれ』というから、『近大の名は出さず、近代節を歌うならその歌詞は変え』と。『団旗の持ち方も近大の伝統ある持ち方するな』と。まあいろいろ条件をつけて許したわけや」

「当時、応援団は体育会のなかにも属さない独立団体やった。

学生が授業料を払う時、同時に年会費、ひとり200円の応援団費を一緒に納めとった。

つまり、近大においては全学生は応援団員で、応援団というのは全学生のリーダーであると。

ワシはその団長をやったわけや。

そもそも近大の応援団は先代の世耕弘一総長、文部大臣までした人やけど、この人が終戦直後にMPから右翼思想学者ということで追放されて、その時のガードマンについてた学生である世耕が自由解放になった時、することなくなって、何かしようということでできたのが応援団。

そういう歴史があるだけに、特別扱いやったわけや。

他の応援団に負けんように全国から選りすぐった奴が特別推薦で来たわけや。

ワシと同じでな」

「日大みたいなもん、絶対に左翼に汚染されへん学校やと自慢しとった日大でも、東大や他の大学からポ~ンと全学連が入り込んで来て、洗脳されてひつくり返った。

そやから、ワシは日大に学生運動潰しの応援に行ったり・・。

近大も立命館もそないして、左翼系の学生がずっと入って来てな。

いちばん学生運動華やかな頃や」

「ワシは当時、道歩いたって、誰も蜘蛛の子を散らしたようにサーッと逃げて、袖も触れんかったけど、そのワシでも怖かったな、左翼だけは。

座り込みして、ともかく近大の場合、先代が亡くなって息子が跡を継いで、それに対して「世襲制反対」、それに「授業料値上げ反対」とかやっとる。

近大にそんな思想持っとる奴はおらんと思うとったら、工学部にあとで東大阪市で共産党の市議やる奴がおってな、ワシと同期や。

それがしっかりやる。ワシら、ともかく保守やんか。

そいつらが夜中の2時3時までガリ版刷ってるんやけど、その頃を見計らってガソリン撒いて火つけまんの。

また、校舎の屋上に長椅子持ってって、鉄の長椅子、あれ、ほんま重いんや、それを集会しているところへ投げる。

ほんで集会している学生の頭がバーンと割れて、血がバッと出て。

ワシがゾッとしたのは、それやのにその場を誰も動かせん。

それから日大に乗り込んだ時はワシ、角材の先に長い釘10本ぐらい打って、それ振り回して、いっぺん散らしたろう思うてな。

それで、ボコーンと相手の腕に釘が刺さってな、抜くにも筋に引っ掛かって抜けへん。

飛んで逃げると思ったら、それでも逃げへん。信念やな。

しっかり教育しよるなと思たわ。

ワシら、思想も何もあらへん。

お祭りや。スポーツの延長みたいなもんや。

当時、最寄り駅から大学までの道の電柱には、『岡本は学校の飼い犬。暴力団にも勝る悪党』なんてビラを貼られたもんや」

「当時は、一人ぐらい犠牲者出してもええと本気で思っとった。

それに、もしそういう殺しかねない事態になったら、皆でバーと取り囲んでかき乱して、誰が犯人が分からんように、と打合せしてたしな。

今思うとゾッとするけど、小の虫は殺してもしかたないと。

機動隊からも、ワシらは『(左翼学生の)足でも何でも折ってええ』と。

いわゆる国家権力と一緒になってやってたからな。

そんな時代やった」

「マンション借りて、車は買った。当時の年間活動予算は1000万円ぐらいあったかな。

それを体育会に今日は何人いうて学生運動潰しに動員させて、『はい何円』 いうて」

「高校時代からある人(後に、警官になる)に目かけてもろうとって、大学1年の時は組事務所から登校しているような感じやったんやけど、2年になった時、その先輩に呼び出されてな、大阪駅の裏の倉庫連れていかれて、目茶苦茶どつきよるねん。

ワシら、どつかれても立ち上がって礼いうのが礼儀やけど、それにしてもごっつうどつきょる。

どないしたんと思ったら、『お前、ヤクザするのか、学生するのかどっちか選べ!』言われてな。

その時、学生のほう取りましたんや」

「高校も大学も後輩の森崎という男が、『アーデル・ミートパッカー』という肉屋に就職して、当時、まだ山本食品いうとったけど、そこの山本社長が『いい先輩がおったら世話せい』ということで、森崎からワシに話がきた。

『肉屋で何するんや』いうたら、『不動産始めますんねん』と。

『ワシ、不動産なんかしたことあらへん』いうたら、『そやけど、右翼しながら金融屋してた時、謄本とか読んだでしょう』と。

『そらそうや。物件知らんかったら、カネ貸せん。

手形の割引もしとったがな』と。

それで学校関係以外で初めて親方持ったんや。

山本さんな。肉屋いうても、この人が初めて肉のパック売りやりだしてな、それまでは肉屋いうたら職人が注文の都度さばいておったんや。

それをこの人はステーキはステーキと、各市場や商店街の店にパックにして冷凍車で配って回った。

大変な人や。毎日、2000万円で仕入れた肉が5000万円になる。

ごつつい商売や。

そのカネで不動産をボンボン買うてやで、就職して3年目からは、ワシが不動産部門「アーデル・ホーム」の副社長として建売に進出して。

マンションなんかは土地を買うて、あとは長谷工とかのニーズに合わせて許可とったってな。

部落解放同盟で皆やるから、許可も早いがな。

つづく

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