許永中事件その2 山口組系古川組と豊国信用組合  

 

山林は、東亜大学の誘致話が持ち込まれたことで、1年半たらずのあいだに3倍にも値上がりしていました。

 

東亜大学誘致の経過は、88年9月市議会であらたな疑惑として取り上げられました。

 

その一つは第1回目の訪韓前の86年7月、大阪市内で東市長らが「関西新聞社」と会合をもちました。

 

この会合は、河内長野市への東亜大学誘致話のスタートになった集まりといわれ、出席者は東市長、市同和対策室長、関西新聞池尻専務、そして公明党の佐生議員の4人。

 

佐生議員が斡旋役で市長と池尻専務を引き合わせたということでした。

 

しかし、市長は「会議をした覚えはない」と否定。

 

もう一つは、会合話から2か月後の同年9月、旧市庁舎(現市文化会館)にロールスロイスが横づけされ、車から降りた8人が市を訪問、学校予定地を下見したという話でした。

 

当然、一行は目立ち、来訪者は許永中と「関西新聞」の池尻専務らでした。

 

さらに、大阪市北区のホテルで韓国関係者のために、市主催のレセプションを開いたという話も取り上げられました。

 

韓国側の来庁と予定地の下見について東市長は、「86年9月ではなく、同年12月13日で、来庁したのは東亜大学の総長以下3人の学校関係者。私は入院中だったため、両助役と企画部の職員が応対し、市長室で雑談した」と答えました。

 

レセプションについては、

「一行が来た13日、ホテルプラザで夕食会をやった。分校設立について相互理解を深めるもので、市主催ではなく双方の負担で、市は市長交際費から20万円出した。私は入院中だったので、顔だけ出し、あいさつして帰った。両助役、府関係者4人、相手方学校関係者、小原議長らが出席した」

と説明。

 

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9月のロールスロイスに乗っての来庁について市長は否定。

 

市長の代理で訪韓した当時の市幹部は、「記憶していない」と微妙な答え方をしました。

 

一方公明党の佐生議員らの隠密訪韓同行について、当初「その事実はない」と否定していた市長も、「後で聞くと、私費で任意に行ったという。いわゆる有力幹部に同行を要請したものではなく、市当局と何ら関係ない」と、佐生議員らの同行の事実だけは認めざるを得なくなりました。

 

市議会関係者によると、佐生議員らの訪韓は市幹部と飛行機もホテルも一緒で、違ったのは部屋だけということでした。

 

市長や小原議長らの計4回にわたる隠密訪韓の航空券の手配をしたのは、「汎太平洋旅行社」(パンパシフィックトラベルサービス)という旅行会社でした。

 

同社は、「関西新聞」とおなじく許永中がオーナーの旅行会社でした。

 

東亜大学分校の河内長野市への誘致計画とそのための隠密訪韓を後ろで操っていたのは許永中とその企業グループであることはもはや疑いようがなく、

 

このころになると許永中が尼崎の山口組系古川組の関係者で前年の87年暮れ、大阪のマスコミで話題になった「豊国信用組合」の乗っ取りと不正融資事件を引き起こしたグループであることなどが市関係者にも知られるようになりました。

 

なぜ、東市長がこれほどまでに熱心だったのか、その背景もわかってきました。

 

許永中は岸大阪府知事の後援会長であった故野村周史「東邦生命」顧問の「野村」姓をつけて、「野村栄中」と名乗るほどの関係がありました。

 

隠密訪韓の航空券を手配した「汎太平洋旅行社」の親会社、「大阪国際フェリー」の就航記念パーティーで、岸知事は祝辞をのべていました。

 

東市長といえば、同じ府庁OBということで、知事選挙ともなれば岸候補の宣伝力ーに乗り込んで応援するという間柄でした。

つづく

 

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許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

 

大阪の南部、河内長野市でかつて韓国の東亜大学を誘致するため市議と市長が密かに現地視察に行っていました。

 

議員の質問などから、東亜大学の日本校予定地として同市河合寺地区の山林約9千坪がすでに買収されており、東亜大学の関係者が市を訪れ現地を視察。

 

同大学誘致の仲介者は、大阪の夕刊紙関西新聞で、計画は府の企画室と相談しながらすすめていることなどがわかりました。

 

さらに大学用地は、10万坪が計画されており、「資金は韓国から持ってくるというウワサがある」 という話まで出ました。

 

真相究明を求める議員の質問に東市長は、大学が韓国資本で設置されることを否定。

 

「日本国内で学校法人を設立しまず各種学校としてスタートさせ、将来は総合大学にしたい」

と答弁。

 

しかし、資金計画、設立発起人、生徒数など具体的なことになると、「わからない」 を連発しました。

 

一連の隠密訪韓の事実と不透明な誘致計画に議員全員協議会は大荒れとなりました。

 

その結果、「東亜大学の誘致は、白紙に戻しゼロから出発すべきだ」 との意見が大勢を占めました。

 

結局、隠密にすすめられていた東亜大学の誘致話は議会側の強い抵抗にあい、この時点で一頓挫してしまいました。

 

この後も東亜大学誘致問題は、不可解な出来事として議会ごとにとりあげられ「東亜大学は学園設立に必要な事務手続きもとらず検討資料の提供もない」という事態が続きました。

 

翌88年3月市議会で東市長は「ことしはじめ、相手に白紙に戻すよう申し入れ、了承を得た」 と言明。

 

これで、市役所をゆさぶってきた、東亜大学誘致問題は終息に向かうはずでした。

 

ところが現実はそうはなりませんでした。

 

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東亜大学誘致問題は発覚から「白紙」まであまりにナゾが多すぎたため、市民のなかから真相究明の動きが出たからです。

 

88年4月、同市加賀田在住の会社役員が、小原議長(当時) と東市長を相手取って、2回の隠密訪韓にともなう旅費、航空運賃など計16万8千800円の公金支出は違法であるとして、大阪地裁に返還を求める訴訟を起こしました。

 

会社役員は、同年8月には、

「議長は訪韓を議会にはからず、報告もしないなど公務とは認められない」

として、違法に支出した公金の返還を求める請求書を、市監査委員に提出しました。

 

この会社役員が起こした公金返還訴訟から、意外な話が飛び出しました。

 

訴状には、「被告小原が違法に職権を濫用して事務局長に命令して、支出命令書を作成させて公金を違法に受領したものであり、被告小原はこの事実を、事務局長に口止めしていたものと見え、議長を尋ねたが、不在の為に事務局長に『議長はどこや』と質したが、知らないと答えさせた。その後事務局長は違法を犯した事に耐えかねて、割腹自殺を計った」

と書いてありました。

 

事務局長の自殺は事実です。

 

「死人に口なし」でことの真相は不明ですが、小原議長の隠密訪韓費用の支出命令書を決裁したのは自殺した市議会事務局長だったことは事実でした。

 

もともと、小原議長と自殺した議会事務局長とは昵懇の間柄で、親密ぶりは市関係者のだれしもが認めるところで当人を課長職から市議会事務局長に引っ張ったのは小原議長と、公然と言われるほどの仲でした。

 

こうしたことから、一年前のナゾの自殺について「自殺する前、あることで小原議長のごくろうさん会パーティーがあったが、どうしてか議会事務局長が出ていませんでした。

 

だれしもが、変に思い

「本人は議長に辞表を出していた。しかし、小原議長は受け取らなかった」

といった話が住民訴訟を機に再びささやかれるようになりました。

 

不明朗な大学誘致問題として議会のたびごとに追及してきた日本共産党河内長野市議団も、88年に入って、深まる疑惑の解明のため本格調査に乗り出しました。

 

その結果、新たな事実が次つぎ発覚しました。

 

その一つは、東亜大学の河内長野市への誘致計画の経緯で東市長はそれまで議会に、誘致は夕刊紙の「関西新聞社」の斡旋と報告していました。

 

とくに、同社の当時専務であった池尻一寛氏とは、大阪府OBである市長が府庁在職中、池尻氏もまたNHK大阪府庁詰め記者(府庁ボックスキャップ)で当時から懇意にしていた関係から、と説明していました。

 

ところが、共産党市議団が入手した資料から東亜大学誘致話に後にイトマン事件で逮捕、起訴されることになる許永中会社代表が、直接かかわっていることが判明したのです。

 

共産党が入手した資料とは、東亜大学校総長から東市長と小原議長への招請状。

 

その招請状の文面をみると河内長野市への大学設立の目的は、在日韓国人の民族教育のための高等教育棟開設置にあり、「本学塾財団理事の一人である許永中氏の勧告に依り御指導を賜りたく御招請する」となっていました。

 

東亜大学校総長からの招請状は、市長は86年11月5日と87年5月8日の2回、小原議長は87年11月15日に、それぞれ郵送で受け取っていることもわかりました。

 

相手側の「招請」にもかかわらず旅費その他、市の公金持ち出しというのも不可解でした。

 

このうち、小原議長の2回の渡韓費用は、市議会旅費規定で16万8千800円とされていましたが、実際は航空券、ホテル代など20万1800円かかっていました。

 

差額の3万3千円はだれが負担したのか、これもナゾとして残りました。

 

訪韓時にはいずれも「関西新聞」の池尻専務が、案内役として同行。

 

87年2月、同年5月の訪韓には許永中も一緒でした。

 

もう一つ、だれしもが首をかしげるようなことが発覚。

 

86年11月の最初の渡韓に当時市議会教育民生常任委員長だった公明党の佐生総一郎議員が同行していました。

 

佐生議員はこの年の暮れ、市長代理の市幹部の2回目の訪韓にも、同じ公明党の吉川昇議員とともに同行していました。

 

公明党の有力議員が2度も、それも2人も渡韓していたので、ナゾは深まるばかりでした。

一方、東亜大学分校予定地とされていた同市河合寺地区の山林約9千坪も、不可解な動きをしていました。

 

登記簿などによると土地がもとの地主から動いたのは86年10月。

 

河内長野市に隣接した富田林市の業者が買収したことになって買収と同時に、大阪市内の金融機関が極度額1億7千万円の根抵当権を設定していました。

 

最初の隠密訪韓がある一か月前でした。

 

それが、再び動いたのは88年2月。

 

「関西新聞」の関係会社である「関西コミュニティ」に所有権が移転していました。

 

所有権移転と同時に、土地にはやはり、「関西新聞」グループの「コスモス」を債務者に、街金融の大手「アイチ」が、極度額5億円の根抵当権を設定していました。

 

それは市長が白紙撤回を表明する直前でした。

 

つづく

 

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許永中と石橋産業 その19 許永中神社の灯籠や石碑に刻まれた寄進者は・・

 

24億円の手形が正式に返還されたのは、12月中旬のことでした。

 

許永中の逃亡で中断されていた約180億円の石橋産業手形詐欺事件について、東京地検特捜部は許永中が収監されたことで、2000年の年明けから捜査を再開しました。

 

そのキーマンの一人が事情聴取の上、自殺した元住友信託銀行役員の井手野下氏でした。

 

3月7日、東京地検特捜部は許永中、かつての「特捜のエース」田中弁護士、許永中の側近で会社役員の尾崎稔、田中久則両容疑者の4人を、石橋産業グループから約180億円の約束手形をだましとったとして詐欺容疑で逮捕しました。

 

許永中らは、この約束手形をすでに市場で売却、約400億円もの利益を手にしていたといわれていました。

 

大阪市北区中崎町あバブル期、「コリアタウン」建設を夢見た許永中がリクルートコスモス社などと組んで、大がかりな地上げをしたところです。

 

ここには訪れた石橋産業の石橋社長らがあまりの豪華さに「すごい」と目を見張った許永中の豪邸や道場がありました。

 

その横に、不動明王や灯寵が立ち並ぶ、小さいが豪華な神社がありました。

 

別名「許永中神社」と呼ばれるこの神社ができたのは96年12月。

 

灯籠や石碑に刻まれた寄進者の名前を見ていくと、なんと、田中森一弁護士、山段芳春会長、吉永透弁護士、井手野下秀守・元住友信託銀行役員、川島国良・カワボウリカ社長、境川尚・日本相撲協会理事長、田中英寿・JOC委員、金雲竜・IOC副会長などの名前がゾロゾロ出てきました。

 

石橋産業手形詐欺事件をめぐって林社長が東京地検に提出した「陳述書」に登場する役者たちが、そっくりそのままあらわれ出た形となりました。

 

 

それはまた、関西の地下経済界で暗躍してきたフィクサーとその取り巻きたちの墓碑のようでもありました。

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3

許永中と石橋産業 その4

許永中と石橋産業 その5

許永中と石橋産業 その6

許永中と石橋産業 その7

許永中と石橋産業 その8

許永中と石橋産業 その9

許永中と石橋産業 その10

許永中と石橋産業 その11

許永中と石橋産業 その12

許永中と石橋産業 その13

許永中と石橋産業 その14

許永中と石橋産業 その15

許永中と石橋産業 その16

許永中と石橋産業 その17

許永中と石橋産業 その18 手形を一刻も早く引き上げたい

 

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