ニシナリの一本独鈷の組織

前回のブログ(動画)で

ボンノさん(菅谷政雄)の実の

お兄さん(菅谷三蔵)が率いていた
古代ユダヤを連想させる代紋で

一本独鈷の菅谷組の話が出てきました。

意外と四代目まで続いていました。

ニシナリの博打打ちでサンタの賭場

を知らない、という人は

いなかったと思います。

今回はニシナリの一本独鈷の
組織を紹介したいと思います。

といっても

私が居たころ、今から40年くらい

前の話になりますが・・

ニシナリというところは
面白い街であることに
異論を挟む者はいないでしょう。

ここでいうニシナリとは
行政区の西成区をいうのではなく

通天閣(厳密には浪速区)から

昔の釜ヶ崎、現在の萩之茶屋

山王町界隈を指しています。

(文章で書くときはカタカナで
ニシナリと表記しています)

コンビニのトイレには
「注射器を捨てないで下さい」
と張り紙があったり

マンションには
「覚醒剤密売人は立ち入り禁止」

という張り紙。

これを見て、「あっ、ほんなら
ウチ密売人やから入らんとこ」

いう奴おるんかいな、と
思わずツッこんでしまいます。

そんなニシナリはかつて
代紋の数、つまり一本独鈷の
組の数でいえばおそらく

日本一ではなかったでしょうか。

そのひとつが直嶋義友会。
後年は若干右翼色を残しながらも

義の分銅を守っています。

そして倭奈良組。大通りに面した所に

事務所がありましたが、当時すでに

ヤクザの事務所扉は鉄板をハメるのが

一般的になっていた時代でも

昔ながらのガラス張りの扉に

金色で代紋と組名を表示していた

最後の組だったと思います。

そして、釜ヶ崎界隈からは少し

外れますが、紀州街道の一方通行を

走るとレンガ張りの建物に本多の

代紋が光っていました。

「あれ、大日本平和会、解散したんじゃないの?」

と思った人もいたでしょう。

大日本平和会の代紋をそのまま

引き継いでいた山中組。

次の大政官とは・・
ロータリーのところにあった

チンドン屋の少し入った所に
波谷組系の井上興業があり

波谷組が解散してから山建の

太田さんの系列で太政官と

看板をあげていましたが

山建組系のそれとは全く関係のない

別組織で老舗の博徒組織でした。

酒梅組は大きく分けると博徒系と

土建業等の実業系に分かれていて

そのどちらもシノギが太かったです。

飛田の入り口から左路地入った

所にあった「はっさん」の賭場は

知らないものはいなかったのでは・・

谷口正雄五代目の経営する土建屋や

榎並工務店の榎並さん海原建設

などは前回のブログ(動画)で

同和とヤクザのお話をしましたが

同和建設業協会(同建協)の

親玉でした。

松田組をリアルで知っている人は

私の年代より少し年代は上に

なりますが、解散した後も博打場で

優れた合力がいるなぁ

と出身を知ると大抵かつて松田組系の

賭場で合力していました

という話が多かったです。

東組。現在の二代目東組は
今回ご紹介する組織で唯一の
指定暴力団。


多くを語る必要はないと思いますが
通天閣界隈を仕切っていたのは
当時、山口組ではなく東組でした。

そして互久楽会。高島屋事件で

消滅するまでは 地元愚連隊を

率いていた代表格。


いわゆる不良青少年を

束ねていました。

小車誠会は元々は今西組系で暴対法が

できるまでは この独特の代紋を

掲げていましたが

平成3年山口組入りしました。

当時の山口組系

また当時、ニシナリの山口組の

代表格としては勝野組で
元々は溝橋組から直参に。

福田組系列で後に黒澤組から

出てきた土谷組。

この「土谷」ですが

私をはじめ地元の人間は

「つちたに」さんと

呼んでいましたが

ながまるさんの上げていた昔の

ニュース番組では「つちや」

と読んでいたので

もしかしたら渡世上のTPOに合わせて

使い分けていたのかもしれません。

その映像をご覧ください。

しかし、マスコミは時に読み方を

間違えたりします。

例えば、かつて英五郎組長が

フェリーの出発を遅らせて

逮捕されたニュースが流れたときが

ありましたが

アナウンサーが英五郎こと

津留 英雄「つるひでお」と言ってた

のを今でも覚えています。

(正しくは「つどめひでお」)

英といえば西淀川区を

思い浮かびますが、

元々はそれこそニシナリでした。