新風営法施行直後の新宿歌舞伎町

新宿歌舞伎町。昭和60年新風俗営業法が施行されたときの裏風俗の女性の数は約6000人といわれていました。

3000軒の正規営業店で働く女性の数を1軒5名と計算しても15000人。

合わせて2万人強の女性たちが、この歌舞伎町にいることになっていました。

更に韓国、フィリピンなどの女性を置いた外人バーが急増、外人ホステスの総数も800~900人、そして約300といわれるラブホテルも林立していて、欲望は充足される街・・

新風営法成立前の歌舞伎町は世界に冠たる欲望産業の街と呼ばれていたほどで欲望産業の陰にヤクザあり・・だったのです。

この街は、戦後に開けたいわば新興の盛り場で同じ東京でも浅草や銀座と異なり、伝統や格式などなく、創意工夫やエネルギーに充ちた新興勢力や業者たちが切り取り、開発してきた街でした。

加えて、敗戦直後の混乱時代に街としてのスタートを切っているために、当時羽振りがよく、さらに経済的に先見の明を持っていた台湾人や韓国人が土地を買い、ビルを建て、当時でも歌舞伎町の半数以上は彼らによって占められていました。

また当時、都庁の移転に伴い、同じ新宿のゴールデン街、柳街、三番街の底地買い業者が話題になりました。

限られた地主が街の急激な発展に伴い、その土地を他人に借す、その借主がまた別人に・・・といった具合に、いつしか複雑きわまりない貸借関係になっていきました。

なにせ当時でも坪平均2500万円といわれた土地で、零細な業者にはおいそれと手が出る土地ではなかったからです。

バーなどを開業するためには不動産ブローカーに依頼し、又借りや又又借りの斡旋を受ける必要がありました。

もちろん、トラブルも生じます。

そこで、そういうもろもろの条件をクリアーするために底地買いの業者が登場し、本来の地主に話をつけたあとその複雑な借地・借家権の持ち主をひとりずつたどり、それぞれに補償金を支払うことで土地をきれいにし、買い主に渡します。

歌舞伎町は現在もまた同じく借地、借家権が入り組んでいますので、当然トラブルも発生します。

トラブルが起きれば、商売人であれば一日も早い解決を望みます。

ましてや、もぐり営業であればなおさらなので街の顔役の手を借りるのが一番早い・・という事になるのです。

そこで紛争解決の手段としてヤクザが顔を出すのですが、底地買いにもいろんな組のヤクザがかんで店の営業権などのトラブルにも当然、顔を出します。

一流ホテルの建設で、どの建築業者を選ぶかにも裏でヤクザが介在していました。

新宿という土地にはそれだけ巨大な利権がからんでます。

大手といわれるヤクザ団体は全部首をつっこんでいました。

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当時は本来の仕事であるカスリと呼ばれるバー、クラブなどからのお守り料をとることもやっていましたが、ヤクザ業界には縄張りというものがあります。

シマとも死守りともいい、法律にはよらないヤクザの領土で、博徒ならこの縄張り内で、賭場を開く権利を有することになります。

的屋は庭場と称し、縄張り内の路上や神社などで露店を開く権利。

その領土に他の組が進出してくれば、縄張り荒らしとして、当然抗争が起こることもありました。

そのために縄張りを決め、ここからここまでがうちの領土だ、と業界内で宣言し、死んでも守るという決意表明から死守りとも呼んでいたのです。

しかし、組長の死亡やその跡目をめぐっての組内での内紛などで勢力が弱まったり、あるいは縄張りを接する組の力が強まり、侵食してきて、抗争のあげく縄張りを取られたりするケースもあり、特に山口粗方式と呼ばれるものは、地方に進出する際にその土地で対立する片方の組と縁を結び、その組の後押しをし、力を強めさせたところで、抗争を起こし、勝てば縄張りを奪う・・

本家である山口組の力がますます強大になる。

山口組の全国制覇作戦は、この方式で押し進められてきました。

当時、歌舞伎町の縄張りは東声会がもともとこの街に強かったとされ、小金井一家と八王寺一家が合併してできた二率会も戦前から新宿がシマとされていました。

「住吉会も稲川会も組織としてではなくとも息のかかっているところはあるし、山口組も代紋はあげないで他の名前でやっているが、やっぱり入っている」

といわれていました。

「テキ屋では戦後、東口にできたマーケットを仕切っていた安田組から飯島連合(全日本飯島連合会)、姉ヶ崎連合会、極東(極東関口一家)や寄居もいる。歌舞伎町は極東が庭場にしているが、いまはこと新宿に関しては博徒も的屋もやっていることに変わりない」

「博徒だからといって盆を開くだけではないし、的屋も露店商売だけではなく、店やキャッチバーなどからカスリをとり、もめごとにも首を突っ込んでいく。縄張りがあるといえばあるし、ないといえばない」

と業界内ではいわれていました。

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フィクサー業転じる暴力団

山口組四代目竹中正久組長はトップの座につく前

昭和54年分約9000万円
昭和55年分2億1000万円
昭和56年分約5000万円

を税務申告せず脱税容疑で起訴されましたが、その公判の中でこのように証言していました。

「昭和37年姫路駅の近くに事務所を構えてからは、もっぱら賭博を資金源とした。

主にサイ本引きで、一晩に250~300万円のあがりがあった。

当時、竹中個人のまかないには月5万円もあれば足り、年間にすれば、3500~4000万円め収入で、支出が月10~20万円だった。

昭和46年、山口組本家の若頭補佐になった頃から、もめごと等の仲介話を持ちこまれるようになった。その謝礼で十分まかなえ、危険な賭博からはしだいに遠のいていった」

竹中組長へのこれら謝礼がどの程度のものだったのかは分からないですが、基本的には手数料的に考えられ、もめごとのタネの金額が大きければ大きいほど謝礼も膨みます。

ヤクザのトップクラスに限られる収入源ではなく、口きき料の類まで含めると中堅の暴力団員も民事問題への介入を収入源としていました。

親分集の昔話として

「わしの若い時分、ヤクザいうたらカネがなくて当たり前、せいぜいの夢が風呂つきのアパートに入ることやった。

車はタクシー上がりの何十万キロ走ったか分からんやつ、ピカピカに磨いて、それでも得意になって乗ったもんですわ。

それが今はちょつと目はしのきくものなら家を持ってる。

車だって外車ですよ。

また世間もヤクザがカネ持って当たり前と思うてます。

そういう目で我々を見ますさかい、ヤクザとしても見栄を張るようになります。

バクチするか、女さわるか、こんなもんしか昔のヤクザは食っていく通がなかったですよ。それを警察はバクチから締め出したでしょう、今は非現行でも逮捕する。ヤクザだって食わなければならない。

だから今は、とどのつまりが堅気と密着して債権取り立てとかね。

若いもんが抵当だ、担保だといってる。

我々若い時分、そんな言葉知らなかったですよ。

ま、そういうのがカネになるから、頭のないヤクザだって自然におぼえます」

という証言がありますが、経済ヤクザの走り・・裏ビジネスでお金を儲けて外車を乗り回すカッコイイやくざ・・といわれていたのがボンノこと菅谷正雄氏(昭和56年没)とされていますから、相当昔の話ではないかと思われます。

表社会でも事業など仕事をしていると、どうしてもヤクザに対する需要が出てきます。

そのひとつが法的解決より、暴力団に依頼した方が解決が早い・・というのがあります。、

例えば取引先が倒産した場合、売掛金などの債権を持つ者に対する支払いは、法的整理によるなら支払いまでに3年以上かかるものが多く、10年以上の年月を要する場合も珍しくありません。

しかもその配当は債権のたかだか10%程度。

債権者にとっては数年先に10%を返しでもらうより、債権のわずか5%でも即刻返してもらう方が得と考えてしまいます。

倒産整理は民事介入暴力の総結集編とでもいうべきもので、高度な専門知識や技術とその所有者たちのチームでなり、金融業者と結び、周辺に経理士、弁護士、公認会計士、司法書士、あるいは不動産ブローカー、バッタ屋等を配して、それらの緊密な連係プレーのもとに瀕死の企業を貪り食う・・

批判がある一方、一部にその迅速な処理に、黙認、あるいは歓迎する雰囲気があることも確かでした。

暴力団は暴力的威嚇力を背景に、一定の社会的ニーズに応じて負のサービスを提供しているとされました。

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地上げ屋 取り纏め屋

地上げ屋 立ち退き屋とは・・

アパート、マンション、商店ビルの老朽化に伴い、建て替え利益をはかる者からの依頼を受け、居住者・営業者の移転の同意を取りまとめる行為をいいます。

その手段としてはガス、電気、水道を止める、空室になった部分を強制的に放り壊す、暴力団員等を動員して営業を妨害する、隣室で騒ぎ立てるなど、あらゆる暴力的手段が取られます。
今は違いますが、昔(昭和時代)の不動産物件等を競落する競売屋などは、民事介入暴力に加えられていました。

日弁連の定義によると、「民事執行事件、倒産事件、債権取立事件その他の民事紛争事件において、当事者または当事者代理人もしくは利害関係人が他の事件関係人に対して行使する暴行、脅迫その他の迷惑行為および暴行、脅迫、迷惑行為の行使を示唆または暗示する一切の言動並びに社会通念上、権利の行使または実現のための限度を越える一切の不相当な行為」

が民事介入暴力とされています。
これは暴力団に限らず一般人でも暴行、脅迫まがいの言動をとれば、立派に民事介入暴力となり得ますが「暴行、脅迫、迷惑行為」と、その示唆、暗示に言動を限定しているため、暴力団の〝シノギ〟の実態にあてはまらない部分がありました。

暴力団だからこそ「暴力」を使わなくても収益が上がるのです。

その経済活動は依頼者にはもちろん、その交渉相手にも特段の不快感を与えない場合があり、例えばフィクサー業、取りまとめ、つなぎ役などで、特に言動を発しなくても単に暴力団であるということ自体で役目を完遂するのです。

相手がその暴力団をすでに暴力団であると知っているか、会った時に知れば目的を達します。

この点、警察庁の民事介入暴力の定義は、暴力団の資金獲得活動の態様を示すことに視点を置いていました。

「暴力団の威嚇力を背景にこれを利用し、一般市民の日常生活または経済取引について司法的救済が十分に機能していない面につけ込み、民事上の権利者や一方の当事者、関係者の形をとって介入、関与するもの」

という警察庁定義は、潜在的な「暴力団の威嚇力」を問題としています。

かつて東京地検が平和相銀問題解明の突破口としている神戸市の山林、通称「屏風(びょうぶ)」売買事件ひとつを取っても、暴力団経済の実態がすくいきれていませんでした。

これはは昭和57年11月、平和相銀系の太平洋クラブが所有する屏風の土地約196万平方メートルを大阪の建設請負業「広洋」ら2社に60億円で売却した際、平和相銀が評価額約41億円のこの土地だけを担保に「広洋」ら2社に計88億円を融資したという事件でした。

これにからんで、売買となんら関係のない大野伸幸(逮捕)経営の「新日興開発」に仲介手数料の形で太平洋クラブが計3億6000万円を払ったことなども事件化、平和相銀前監査役、伊坂重昭ら幹部、関係者の逮捕につながり、事件に右翼、暴力団が暗躍、巨額を得たことが分かりました。

伊坂監査役は東京の有力な右翼に土地の買い手探しを依頼、右翼は京都最大の暴力団、会津小鉄系高坂組組長・高坂貞夫に話をつなぎ、高坂が「広洋」ら2社に太平洋クラブを引き合わせたという経緯でした。

その謝礼が右翼に1億2000万円、高坂に4億円が支払われていたのです。

高坂は不動産業も営んでいましたが、単に買い手を仲介したにすぎません。

たとえ正当な取引業者にしろ、手数料は売買価格60億円の3%である1億8000千万円が上限のはずです。

これはどういうことか・・

先ほどの警察庁定義にある「司法的救済が十分に機能していない面につけ込」んだわけではなく、まして山林取引に強いて「介入」したわけでもありません。

きわめて平穏にフィクサー役をつとめ4億円という大金を一挙に手中にしたのです。

高坂は平和相銀事件では、たまたま伊坂の特別背任容疑の共犯として逮捕されましたが、高額の謝礼を受け取っただけでは今のような暴排条例がなかった時代、摘発は難しかったのです。

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