食肉の帝王、浅田満氏が経営するハンナンは、1947年実父が食肉卸売業の浅田商店を創業したのが始まりでした。
73年には阪南畜産と名称を変更し、85年にはグループを統合するハンナンを設立。
事件当時資本金は4億6000万円、業界関係者の間では、その儲けぷりについて、「日銭一億円」 ともいわれ事実その年商は1400億円にも上っていました。
また、87年大阪地検特捜部が摘発した中企連、大企連会員グループによる巨額脱税事件の後、大企連会員のハンナンは巨額の修正申告をし、100億円もの税金を支払っていました。
狂牛病騒ぎが起こる前の年の額で、食肉関係のグループ総売上高は3000億円にも上っていた、といわれています。
浅田氏とは、部落解放同盟をバックにして輸入食肉業界の頂点に君臨し、中央の政界とも太いパイプを持ち、大阪府政の背後に暗躍するフィクサーといわれており、浅田氏は各府県にある同和食肉事業協同組合の輸入肉の共同購入などを取り仕切る、全国同和食肉事業協同組合連合会専務理事の地位にありました。
この全国同和食肉事業協同組合連合会(全国同和)設立の基盤になったのは、70年12月に結成された大阪同和食肉事業協同組合(大阪同和)で、浅田ファミリーの次男だった満氏は、長男が社長を務めていた阪南畜産での経営手腕を買われ、30歳そこそこの年齢で大阪同和の専務理事に就任。
畜産振興事業団が独占的に取り扱っている外国産の輸入肉をめぐり浅田氏が放出枠の拡大を狙って、農林水産省の外郭団体特殊法人畜産振興事業団食肉部長青山氏を買収したというものでした。
青山氏は、輸入肉の買いつけや国内での放出売り渡しに関する業務を統括、業界では 「肉の天皇」の異名を取っていたほどの人物でした。
全国同和の輸入肉の落札量は競争入札売りで、83年約4200トン、84年約5300トン、85年約4000トンにも上り、入札参加団体中最大の量でした。
競争入札以外の分も含めた85年の全落札量で見ると約6000トン、畜産振興事業団の需要者団体などで構成された指定団体に対する売り渡し量の、約20%にも達していたといいます。
全国同和は、こうした大枠の取り扱い量を背景に、関西の食肉市場での価格形成に大きな影響力を持っていました。
全国同和が畜産振興事業団から買い入れた牛肉は卸売り業者を経て小売店の店頭に並ぶ訳ですが業界関係者によると、当時国内で平均的に消費されていた米国産ステーキ用ヒレ肉の生産地価格はキロ当たり1900円前後で、事業団は、これに輸入商社のマージン・経費などを上乗せし、1950円前後で買い上げ。
事件摘発当時の落札価格は2850円前後で、卸売り業者を経て、小売店に卸される価格は約3100円。この間の流通マージンはキロ当たり200円前後で、全国同和やハンナンなどの利益になる仕組みでした。
こうして、輸入肉が店頭に並ぶ頃には、キロ当たり5000円近くに跳ね上がる仕組みは浅田氏がこうしたかたちで利益を生む輸入肉の取り扱い枠拡大に奔走した活動が実を結んだ、といってよいでしょう。
つづく