ロイヤル社の林社長によれば石橋産業では74年、先代の石橋建蔵氏が他界したことをきっかけにして、異母兄弟の確執が表面化しました。
石橋産業グループの一つで上場企業だった中堅ゼネコン若築建設の専務の座を追われた異母兄弟の石橋克規氏とグループ代表の石橋浩氏とは激しく対立しました。
95年10月頃「あんたとこの義兄弟の石橋さんのことなんじゃが、石橋さんの兄弟に克規さんておるじゃろうが?実はどうもこの人がヤクザにだまされて石橋産業の株を沈められてしもうたようだが、ついては石橋さんに会わせてもらえんじゃろうか~」
という電話が広島訛りのある男から入り、
「実は、克規の生活の面倒を見ていて、株券を回収してやった人がいる。このまま放置しておけば、石橋産業の株式もまたどこへ沈んでしまうかもわからんでしょうが~」
などと言ってきました。
翌11月中旬、石橋産業の石橋浩社長とロイヤル社の林社長の二人は、都内のホテルで電話をかけてきた男に会いました。
この男は、東京の暴力団・住吉会系の総会屋で、もう一人の男は、広島の暴力団・共政会関係者の身内でした。
二人が出かけた会談場所のホテルのロビーには、一目で暴力団組員とわかる男が十数人、周りの席に座っていました。
そこで、克規氏の面倒を見ているという男は同氏の生活費と株券回収費用として6000万円を要求。
しかし、株の買い戻しの件はあいまいにしたまま株を預けている人を石橋産業に連れていくという話になり、そこに現われたのが田中森一という弁護士でした。
田中弁護士は71年検事に任官し大阪・東京両地検の特捜部検事を務め、撚糸工連事件など大型経済事件の捜査に携わり、特捜のエースと呼ばれた人物でした。
88年退官した後は大阪で弁護士を開業。
検察捜査の手の内を熟知した弁護士としてその方面では知られていて、国際航業株事件の小谷光浩氏、射殺された山口組ナンバーツーの宅見勝若頭、そして末野興産の末野謙一氏などの顧問先となっていました。
石橋産業にあらわれたころには許被告と彼は盟友関係にあり、この席で石橋社長が「いくらで売ってもらえるか」と問い詰めたところ、田中弁護士はおもむろに株の預かり証を取り出し「この様に株券の方は私が責任を持って預かっている。帰ってこちらの方も検討する」と言いました。
裏に暴力団が関与していると察知した石橋産業側はロイヤル社の林社長の紹介で暴力団・住吉会理事長に相談、石橋産業側にたって住吉会の人間が交渉に立ち会うことになりました。