許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

 

大阪の南部、河内長野市でかつて韓国の東亜大学を誘致するため市議と市長が密かに現地視察に行っていました。

 

議員の質問などから、東亜大学の日本校予定地として同市河合寺地区の山林約9千坪がすでに買収されており、東亜大学の関係者が市を訪れ現地を視察。

 

同大学誘致の仲介者は、大阪の夕刊紙関西新聞で、計画は府の企画室と相談しながらすすめていることなどがわかりました。

 

さらに大学用地は、10万坪が計画されており、「資金は韓国から持ってくるというウワサがある」 という話まで出ました。

 

真相究明を求める議員の質問に東市長は、大学が韓国資本で設置されることを否定。

 

「日本国内で学校法人を設立しまず各種学校としてスタートさせ、将来は総合大学にしたい」

と答弁。

 

しかし、資金計画、設立発起人、生徒数など具体的なことになると、「わからない」 を連発しました。

 

一連の隠密訪韓の事実と不透明な誘致計画に議員全員協議会は大荒れとなりました。

 

その結果、「東亜大学の誘致は、白紙に戻しゼロから出発すべきだ」 との意見が大勢を占めました。

 

結局、隠密にすすめられていた東亜大学の誘致話は議会側の強い抵抗にあい、この時点で一頓挫してしまいました。

 

この後も東亜大学誘致問題は、不可解な出来事として議会ごとにとりあげられ「東亜大学は学園設立に必要な事務手続きもとらず検討資料の提供もない」という事態が続きました。

 

翌88年3月市議会で東市長は「ことしはじめ、相手に白紙に戻すよう申し入れ、了承を得た」 と言明。

 

これで、市役所をゆさぶってきた、東亜大学誘致問題は終息に向かうはずでした。

 

ところが現実はそうはなりませんでした。

 

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東亜大学誘致問題は発覚から「白紙」まであまりにナゾが多すぎたため、市民のなかから真相究明の動きが出たからです。

 

88年4月、同市加賀田在住の会社役員が、小原議長(当時) と東市長を相手取って、2回の隠密訪韓にともなう旅費、航空運賃など計16万8千800円の公金支出は違法であるとして、大阪地裁に返還を求める訴訟を起こしました。

 

会社役員は、同年8月には、

「議長は訪韓を議会にはからず、報告もしないなど公務とは認められない」

として、違法に支出した公金の返還を求める請求書を、市監査委員に提出しました。

 

この会社役員が起こした公金返還訴訟から、意外な話が飛び出しました。

 

訴状には、「被告小原が違法に職権を濫用して事務局長に命令して、支出命令書を作成させて公金を違法に受領したものであり、被告小原はこの事実を、事務局長に口止めしていたものと見え、議長を尋ねたが、不在の為に事務局長に『議長はどこや』と質したが、知らないと答えさせた。その後事務局長は違法を犯した事に耐えかねて、割腹自殺を計った」

と書いてありました。

 

事務局長の自殺は事実です。

 

「死人に口なし」でことの真相は不明ですが、小原議長の隠密訪韓費用の支出命令書を決裁したのは自殺した市議会事務局長だったことは事実でした。

 

もともと、小原議長と自殺した議会事務局長とは昵懇の間柄で、親密ぶりは市関係者のだれしもが認めるところで当人を課長職から市議会事務局長に引っ張ったのは小原議長と、公然と言われるほどの仲でした。

 

こうしたことから、一年前のナゾの自殺について「自殺する前、あることで小原議長のごくろうさん会パーティーがあったが、どうしてか議会事務局長が出ていませんでした。

 

だれしもが、変に思い

「本人は議長に辞表を出していた。しかし、小原議長は受け取らなかった」

といった話が住民訴訟を機に再びささやかれるようになりました。

 

不明朗な大学誘致問題として議会のたびごとに追及してきた日本共産党河内長野市議団も、88年に入って、深まる疑惑の解明のため本格調査に乗り出しました。

 

その結果、新たな事実が次つぎ発覚しました。

 

その一つは、東亜大学の河内長野市への誘致計画の経緯で東市長はそれまで議会に、誘致は夕刊紙の「関西新聞社」の斡旋と報告していました。

 

とくに、同社の当時専務であった池尻一寛氏とは、大阪府OBである市長が府庁在職中、池尻氏もまたNHK大阪府庁詰め記者(府庁ボックスキャップ)で当時から懇意にしていた関係から、と説明していました。

 

ところが、共産党市議団が入手した資料から東亜大学誘致話に後にイトマン事件で逮捕、起訴されることになる許永中会社代表が、直接かかわっていることが判明したのです。

 

共産党が入手した資料とは、東亜大学校総長から東市長と小原議長への招請状。

 

その招請状の文面をみると河内長野市への大学設立の目的は、在日韓国人の民族教育のための高等教育棟開設置にあり、「本学塾財団理事の一人である許永中氏の勧告に依り御指導を賜りたく御招請する」となっていました。

 

東亜大学校総長からの招請状は、市長は86年11月5日と87年5月8日の2回、小原議長は87年11月15日に、それぞれ郵送で受け取っていることもわかりました。

 

相手側の「招請」にもかかわらず旅費その他、市の公金持ち出しというのも不可解でした。

 

このうち、小原議長の2回の渡韓費用は、市議会旅費規定で16万8千800円とされていましたが、実際は航空券、ホテル代など20万1800円かかっていました。

 

差額の3万3千円はだれが負担したのか、これもナゾとして残りました。

 

訪韓時にはいずれも「関西新聞」の池尻専務が、案内役として同行。

 

87年2月、同年5月の訪韓には許永中も一緒でした。

 

もう一つ、だれしもが首をかしげるようなことが発覚。

 

86年11月の最初の渡韓に当時市議会教育民生常任委員長だった公明党の佐生総一郎議員が同行していました。

 

佐生議員はこの年の暮れ、市長代理の市幹部の2回目の訪韓にも、同じ公明党の吉川昇議員とともに同行していました。

 

公明党の有力議員が2度も、それも2人も渡韓していたので、ナゾは深まるばかりでした。

一方、東亜大学分校予定地とされていた同市河合寺地区の山林約9千坪も、不可解な動きをしていました。

 

登記簿などによると土地がもとの地主から動いたのは86年10月。

 

河内長野市に隣接した富田林市の業者が買収したことになって買収と同時に、大阪市内の金融機関が極度額1億7千万円の根抵当権を設定していました。

 

最初の隠密訪韓がある一か月前でした。

 

それが、再び動いたのは88年2月。

 

「関西新聞」の関係会社である「関西コミュニティ」に所有権が移転していました。

 

所有権移転と同時に、土地にはやはり、「関西新聞」グループの「コスモス」を債務者に、街金融の大手「アイチ」が、極度額5億円の根抵当権を設定していました。

 

それは市長が白紙撤回を表明する直前でした。

 

つづく

 

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