許永中その1

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昔は大阪の「不動産競売事件」といえば西天満にある大阪地方裁判所本庁でしたが、ほどなくして、交通裁判の庁舎が建て替えになったのを機に三国へ移転しました。

 

 

「赤切符を切られたことがある」
という人は、もしかしたら馴染みのある場所かも知れません。
もっとも、誰も馴染みたくは無いでしょうが・・

 
そしてここ数年前までは、三点セットと言われるブルーファイルに登記簿謄本も付いていましたので、閲覧することが出来ました。

 
その中に、ある時期、許永中事件関連の不動産がやたら多く出回ってていたのを覚えています。

 
今回のお話はその中のひとつです。

 
大阪府池田市といえば、大阪北部のベッドタウンで、その中でも閑静な住宅街が広がる「池田市旭が丘」という町があります。

 

 

この旭が丘の一角にある土地はイトマン事件の主役、「許永中」氏が実質オーナーの

 

 

「新日本建設」
「大阪国際フェリー」

 

 

が所有していて許永中氏が在日外国人登録をする際の届け出住所地ともなっていました。
この静かな住宅地に平成7年の春頃、突然、重機やショベルカーが持ち込まれました。

 

 

建築確認の看板には建築主「報恩人道教会」代表者は「大阪国際フェリー」の代表者が書かれていました。
時はあたかもオウム真理教地下鉄サリン事件が起きたちょうどそのころです。

 

 

付近住民は神経をとがらせていました。

 
というのも、許永中氏がその土地を昭和52年頃に購入してからというのも、いくつかの騒動があったからです。

 
許永中氏がこの閑静な住宅街、池田市旭丘の土地に建物を建てようとしたのは、これで3度目だったからです。

 
まず、購入した昭和54年に許永中邸が完成。

 
祝いに駆け付けたのか、黒塗りの外車が何台も近隣道路に横づけ、やくざ風の男が肩をいからせて歩くなど付近住民は恐怖を感じていました。

 
その後、昭和58年4月ごろ上場会社の「東急建設」が山口組系の暴力団組長を使って起こした恐喝事件で兵庫県警から日本名「藤田栄中」で指名手配され、新聞では顔写真入りで報道されました。

 
新聞によると、許永中氏は尼崎に本部を置く古川組の準構成員と書かれていたことから、住民は初めて暴力団組員と知ったのです。

 
その年の秋、許永中一家は突然引っ越し「家が宗教に売れた」と噂が広がりました。

 
そして、お寺の門のように改築され、許永中氏の日本名「藤田」の隣に、「釈天崇敬会」の郵便受けが設置されました。

 

 
その後、隣地も買収し1670平米にもなった土地を昭和60年にリクルートコスモス社に転売、許永中氏が実質オーナーの「新日本建設社員寮」を造る、という計画が不自然とされ、住民の反対運動。

 
その後、「リクルート池田旭丘」という通常の分譲マンションを建設、という事になりました。

 

 

ただ同社が分譲する物件の場合、住宅金融公庫が使えるのが普通なのに、このマンションだけ付かない、という不可解なものでした。

 
そうこうしているうちに、あの「リクルート事件」が勃発し、計画は頓挫。

 

 

土地はリクルート社から許氏が実質オーナーの「新日本建設」「大阪国際フェリー」にまた転売されました。
そもそもリクルート社と許永中氏のつながりは、東邦生命の大田清藏会長の紹介でした。

 

 

大田会長は許永中氏の金主とされており、リクルート社は当時展開していたマンション事業の地上げ業者として
許永中氏を使っていたとされています。

 

 

マンションも取りやめとなって、山門と白壁だけが残った草ぼうぼうの荒れた土地となって、まもなく訪れる
バブル期を迎える事になります。

 

 

 

<つづく>