昭和時代の整理屋

その舞台は昭和50年に設立された名古屋市に本店を置くスポーツ用品の小売販売会社でした。

資本金500万円の同族会社で、昭和57年ごろからディスカウントショップを相ついで出店し、派手な安売り広告をして世間の注目を浴びていました。

ところが、その内実は店舗拡張に伴う運転資金の逼迫と、スキー用具等の季節商品の売り上げ不振にあえいでいたのです。

正規の金融機関からの莫大な借り入れのほかに高利金融業者からの借り入れが相つぐようになりました。

この高利の借り入れについては、社の内外で常務と呼ばれる人物が取り継ぎをしていましたが、こうした借り入れについてはほとんど、社長、専務、あるいは親族の個人財産が担保として差し入れられていました。

そして社長と専務は、近い将来会社が倒産必至の状態となったため、東京の弁護士の紹介で名古屋の弁護士を訪ねて対応策を協議、自己破産によって整理するほかないという結論になり、極秘裏に準備を進め、不渡りの予想される日までに破産の申請と財産保全命令の申請をすることにしました。

負債総額が20億円で、そのうち高利の借り入れが8千万円、資産は12億円で、うち在庫商品は簿価で7億円というような状態でした。

ところが、そのあと社長も専務も音信不通になってしまいました。

そこで、整理に対していろいろの困難が予想されるということで、名古屋弁護士会の民暴センターのベテラン弁護士3名が、この事件の解決にあたることになりました。

ところが翌日早朝、高利貸との間をとり持っていた常務が、各店舗の鍵を担当者の自宅を回って借り出したです。

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そして、高利金融業者、あるいは仕入れ先の意を受けた暴力団や事件屋が、この男の手引きによって、トラック7台で開店前に在庫商品の持ち出しを開始しました。

こうして主要商品、ゴルフボールやゴルフセット等、数時間のうちにその7店舗から全部搬出し終えました。

事情を知った他の債権者も次々に押しかけて、取りつけ騒ぎになったのですが、このうち3店舗ほどには暴力団の名前が張り出され、戦闘服姿の暴力団員が占拠してしまいました。

社長とか専務は、弁護士と密室で破産手続の準備を進めていたのですが、こういう実情を知らされた段階では、もうほとんど商品が運び出されてしまっていたのです。

各店舗の催業員は、事情もわからずただ見守るばかりで、本社には多くの債権者が結集して、不穏な状態となっていました。

そこで弁護士らが、本社での債権者との対応、重要書類の確保、従業員に対する説明と指示、各店舗の状況の確認に奔走しましたが、各店舗が離れた場所にあったため、処理に長時間を要したうえ、従業員は弁護士とは初対面で、幹部とも連絡がとれず、さらにこのころから社長も姿をくらましていたのです。

従業員は完全に動揺し、対応能力を失ったばかりか、自分の労働債権の確保とか個人的に関係の深い得意先の利益の確保に奔走するありさまでした。

社長は、所在不明でしたが探させてみると、このような事態にショックを受けて倒れ、弁護士との連絡もつかない状況でした。

こうして、結局会社の資産は整理屋に全部してやられたのです。

整理屋というのは、暴力団が自ら整理屋になったり、あるいはまた高利金融業者が整理屋になる場合もあれば、表向きカタギでもバックに暴力団とか高利金融業者がついている整理屋もいます。

そして、たいてい経理の専門家、あるいは法律などの専門家がヒモづいています。

当時、日本一の整理屋といわれた山富の専務は、有名な大学の法学部出身でした。

また整理屋の幹部に、法律のわかる者、あるいは司法試験くずれ、弁護士が関与していることも多くありました。

そして傘下の多数の高利金融業者をアンテナにして、倒産間近い企業をかぎつけます。

一つの企業が瀕死の重傷を負っている・・例えでいうとサバンナで野獣が倒れたとします。

すると死臭あるいは血のにおいをかぎつけて、複数の整理屋がハイエナのように押しかけてきます。

そこで複数の整理屋の主導権争いでは、まず倒産企業の代表者の身柄を確保して、商業帳簿とか代表者印を手に入れた者が勝ちなのです。

身柄の確保とか帳簿、印鑑の確保ができなかった整理屋は、勝った整理屋から涙金をもらってすごすごと引き揚げていくという構図になっています。

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