バブル崩壊時大物右翼の意見

バブル崩壊当時、銀行やノンバンクの不良債権ということばが頻繁に飛び交いました。旧大蔵省の発表では、その額が12兆円とか言われていたのです。

いちばんの問題は、まともであるはずの経済行為のなかに、ヤクザという横車を通したことで、これらの不良債権はB債権といわれていました。

当時銀行は、自分の系列のノンバンクが抱えている不良担保物件を代物弁済でとらせて、さらにノンバンクに子会社を作って、そこに抱かせたりしていました。

そのいわば孫会社に、倒産した不動産業のデキる役員クラスをスカウトしていました。

どの物件が優良で、どこに持っていけば買ってくれるかが彼らの仕事でした。

また、7億の返済期限がきて、2億だったら返せる・・という話があったとします。

「だったら社長、5億はさらに再融資しますから、同時融資、同時返済の方法で7億返してください」という話がゴロゴロしていました。

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ある大物右翼がこう嘆いていました。

(銀行の不良債権処理を)

「貧困極まりない発想ですよ。

こういうのを事件屋の発想という。

まともな経済家がやっちやあいかんですよ。

ノーマルなシステムがバブルで崩壊したからって、その尻ぬぐいに悪いこともやっていいってわけじゃない。

日本経済にとつて非常にマイナスですよ、これは。

それもこれも、なんでもかんでも数字でしか判断しない合理主義社食の考え方が、彼らにはあるからですよ。

簡単に言えば、数字のためなら、法律にふれさえしなければ、何をやってもいいという考え。

大人がそれをやっとるものだから、子どもの犯罪も増える。.

悪循環ですよ。

いま、日本という国は国家存亡の危機なんですよ。

(中略)

知には、知識とは別に知恵がある。

これは知の恵みといって、天から授かったり環境から授かったりする。

この知の恵みのほうが知識より大きかった、昔からね。

それをいまの社会は、忘れている。

人間性や人間の能力といった数字で計れないものまですべて数字に表そうとする。

つまり、知識が最優先されておる。

アメリカナイズされてしまったということです。

知の恵みを説いて、人間性を分からせれば、モラルが分かる。

そうなれば、人を騙したりしなくなり、数字を追わなくなる。

経済のバランスもきれいになり、弁護士なんか頼まなくても話し合いができる。

これが根本ですよ。

バブルの崩壊というのは、精神が崩壊したから経済も崩壊したということです。

そこになぜ気づかないのか、政治家も経団連も財界のトップも」

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バブル期の不動産屋

バブル期は不動産屋というより、業界でアンコとよばれる人間が入ることも多く、にわか不動産業者が量産されました。

列島改造論ではないですが、素人が次々と参入してきて、まさに一億総不動産屋といわれました。

一つの物件の取引きに6~7社も入ることも珍しくありませんでした。

もっとも、自分で売買した人は、ババをつかんだ形となってしまいましたが・・。

最初は地道に仲介をやってて、仲介料を5億円ほど貯めて、そのカネを元手に自分で売買をやった人が居て、初め一つの物件を転がして利益を出し、また次の物件を買い、二度三度と転がしてうまくいっていましたが結局、最後には10億の物件抱え込んで金利でアップアップ・・・

という話がそこらじゅうに転がっていました。

地上げもやっていました。

一例ですが、底地は地主が1人、そこに10人の借地権者がいました。

当時バブルのころでしたから地価が坪800万~1200万円くらいで、まず底地を買って、借地人に一件一件話をつけて出て行ってもらう作業をしました。
 
長屋が多いところでそこにもう50年も前から住んでいる・・という人たちが暮らしているところです。

権利が複雑に絡みあっている土地だから底地は安く、地主には買い叩いて坪100万位で100坪なら1億円。

逆に借地権者には甘く借地権で坪1000万円前後位の値が付きましたが、一件一件事情が違いますから、多少バラつきは出ました

立ち退き先があればすぐ出る、という家もあれば、粘る人もいましたが諸経費込みで、平均して最終的に坪1500万円ぐらいで着地したと思います。

資金はノンバンクからの借入れで、借地権者とは、坪1500万円で契約を交わしておいてノンバンクと契約する時には、坪2000万円で申請します。

そうすると2000万円でお金が下りた時代でした。

もちろん、契約書は見せますが、提出するのはコピーなので数字だけ変えていました。
 

契約書を少し厚手の本の上に置き、捺印の上にメンディング・テープを貼って擦って、もう一通の上でもうー度擦ります。

余った朱肉を綺麗に吸い取って、見た目ではまったく変わらない契約書ができ上がりまました。

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新風営法施行直後の新宿歌舞伎町

新宿歌舞伎町。昭和60年新風俗営業法が施行されたときの裏風俗の女性の数は約6000人といわれていました。

3000軒の正規営業店で働く女性の数を1軒5名と計算しても15000人。

合わせて2万人強の女性たちが、この歌舞伎町にいることになっていました。

更に韓国、フィリピンなどの女性を置いた外人バーが急増、外人ホステスの総数も800~900人、そして約300といわれるラブホテルも林立していて、欲望は充足される街・・

新風営法成立前の歌舞伎町は世界に冠たる欲望産業の街と呼ばれていたほどで欲望産業の陰にヤクザあり・・だったのです。

この街は、戦後に開けたいわば新興の盛り場で同じ東京でも浅草や銀座と異なり、伝統や格式などなく、創意工夫やエネルギーに充ちた新興勢力や業者たちが切り取り、開発してきた街でした。

加えて、敗戦直後の混乱時代に街としてのスタートを切っているために、当時羽振りがよく、さらに経済的に先見の明を持っていた台湾人や韓国人が土地を買い、ビルを建て、当時でも歌舞伎町の半数以上は彼らによって占められていました。

また当時、都庁の移転に伴い、同じ新宿のゴールデン街、柳街、三番街の底地買い業者が話題になりました。

限られた地主が街の急激な発展に伴い、その土地を他人に借す、その借主がまた別人に・・・といった具合に、いつしか複雑きわまりない貸借関係になっていきました。

なにせ当時でも坪平均2500万円といわれた土地で、零細な業者にはおいそれと手が出る土地ではなかったからです。

バーなどを開業するためには不動産ブローカーに依頼し、又借りや又又借りの斡旋を受ける必要がありました。

もちろん、トラブルも生じます。

そこで、そういうもろもろの条件をクリアーするために底地買いの業者が登場し、本来の地主に話をつけたあとその複雑な借地・借家権の持ち主をひとりずつたどり、それぞれに補償金を支払うことで土地をきれいにし、買い主に渡します。

歌舞伎町は現在もまた同じく借地、借家権が入り組んでいますので、当然トラブルも発生します。

トラブルが起きれば、商売人であれば一日も早い解決を望みます。

ましてや、もぐり営業であればなおさらなので街の顔役の手を借りるのが一番早い・・という事になるのです。

そこで紛争解決の手段としてヤクザが顔を出すのですが、底地買いにもいろんな組のヤクザがかんで店の営業権などのトラブルにも当然、顔を出します。

一流ホテルの建設で、どの建築業者を選ぶかにも裏でヤクザが介在していました。

新宿という土地にはそれだけ巨大な利権がからんでます。

大手といわれるヤクザ団体は全部首をつっこんでいました。

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当時は本来の仕事であるカスリと呼ばれるバー、クラブなどからのお守り料をとることもやっていましたが、ヤクザ業界には縄張りというものがあります。

シマとも死守りともいい、法律にはよらないヤクザの領土で、博徒ならこの縄張り内で、賭場を開く権利を有することになります。

的屋は庭場と称し、縄張り内の路上や神社などで露店を開く権利。

その領土に他の組が進出してくれば、縄張り荒らしとして、当然抗争が起こることもありました。

そのために縄張りを決め、ここからここまでがうちの領土だ、と業界内で宣言し、死んでも守るという決意表明から死守りとも呼んでいたのです。

しかし、組長の死亡やその跡目をめぐっての組内での内紛などで勢力が弱まったり、あるいは縄張りを接する組の力が強まり、侵食してきて、抗争のあげく縄張りを取られたりするケースもあり、特に山口粗方式と呼ばれるものは、地方に進出する際にその土地で対立する片方の組と縁を結び、その組の後押しをし、力を強めさせたところで、抗争を起こし、勝てば縄張りを奪う・・

本家である山口組の力がますます強大になる。

山口組の全国制覇作戦は、この方式で押し進められてきました。

当時、歌舞伎町の縄張りは東声会がもともとこの街に強かったとされ、小金井一家と八王寺一家が合併してできた二率会も戦前から新宿がシマとされていました。

「住吉会も稲川会も組織としてではなくとも息のかかっているところはあるし、山口組も代紋はあげないで他の名前でやっているが、やっぱり入っている」

といわれていました。

「テキ屋では戦後、東口にできたマーケットを仕切っていた安田組から飯島連合(全日本飯島連合会)、姉ヶ崎連合会、極東(極東関口一家)や寄居もいる。歌舞伎町は極東が庭場にしているが、いまはこと新宿に関しては博徒も的屋もやっていることに変わりない」

「博徒だからといって盆を開くだけではないし、的屋も露店商売だけではなく、店やキャッチバーなどからカスリをとり、もめごとにも首を突っ込んでいく。縄張りがあるといえばあるし、ないといえばない」

と業界内ではいわれていました。

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