取材拒否するヤクザ 東京と大阪

平成4年、今から30年ほど前の話ですが 2月5日、

新宿で山口組の組員が射殺されました。

発砲したのは住吉会系の組員で、

翌日には 住吉会系の事務所に銃弾が撃ち込まれました。

取材に行きましたが、どこも取材拒否。

西成の事務所取材はジェスチャーで

部屋住みの若い衆を 上の者が怒鳴りつけて、

逆に取材陣をビビらせています。

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バブル期の新宿歌舞伎町

 歌舞伎町の家賃相場は当時その店の権利を売り買いする営業権によって決まっていました。

バブル期までは、営業権を譲渡する形で店を開いていました。

たとえば、歌舞伎町でいうと区役所通りでも表通りに面していて、風林会館の前あたりまでのビルに入るのが高級クラブとされていて、店の広さにもよりますが50人定員のまずまずのところで、2500万円ぐらいでした。

それで、家賃が坪5万円。

そのうち大金が必要な権利譲渡は成約が難しくなってきました。

高級ではない普通のクラブだとリースの保証金300万円、家賃坪15000円というのが相場となってきました。

バブル崩壊後は現実に客が入ってないので貸科を下げるしかなく、それでも店が埋まりませんでした。

大家のなかには、又貸しを認める者もいて、月40万円の賃料が払えないので、通常営業が終わったあと、月10万円で深夜営業を行なう者に貸す、といった形態もでてきました。

賃料相場は大幅に下落したといっても、いっこうに景気は上向きませんでした。

夜逃げするクラブ経営者が続発してもよさそうなものですが、それが歌舞伎町の面白いところで、年間半数の店が入れわるところなのです。

大家は、賃料が払えなくなっても保証金のある間は放っておくのです。

まず騒ぐのは酒屋、ついで給料を払ってくれないホステス。

当然、店の雰囲気が悪くなり客は減ります。

酒屋は、酒を配達しなくなり、ホステスはやめていきます。

大家は保証金がなくなったら、ここで初めてどうするのか聞いてきます。

経営者は黙って去るしかないのですが、店が潰れても不良債権にはなりません。

やくざ者を代理人として賃料の値下げ交渉、あるいは賃料をタダにしろ、などのゴリ押しを言ってくる者もおり、大家もヤクザを前面に立てて話をするようになります。

どちらにしてもヤクザが儲かるようになっていました。

歌舞伎町にも「桃源社」「コリンズ」といったバブル代表格の大手不動産会社が進出し、豊富な資金力にモノをいわせてソシアルビルを建てましたが、当初は結構人気があり、すぐにテナントが埋まりました。

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新風営法施行直後の新宿歌舞伎町

新宿歌舞伎町。昭和60年新風俗営業法が施行されたときの裏風俗の女性の数は約6000人といわれていました。

3000軒の正規営業店で働く女性の数を1軒5名と計算しても15000人。

合わせて2万人強の女性たちが、この歌舞伎町にいることになっていました。

更に韓国、フィリピンなどの女性を置いた外人バーが急増、外人ホステスの総数も800~900人、そして約300といわれるラブホテルも林立していて、欲望は充足される街・・

新風営法成立前の歌舞伎町は世界に冠たる欲望産業の街と呼ばれていたほどで欲望産業の陰にヤクザあり・・だったのです。

この街は、戦後に開けたいわば新興の盛り場で同じ東京でも浅草や銀座と異なり、伝統や格式などなく、創意工夫やエネルギーに充ちた新興勢力や業者たちが切り取り、開発してきた街でした。

加えて、敗戦直後の混乱時代に街としてのスタートを切っているために、当時羽振りがよく、さらに経済的に先見の明を持っていた台湾人や韓国人が土地を買い、ビルを建て、当時でも歌舞伎町の半数以上は彼らによって占められていました。

また当時、都庁の移転に伴い、同じ新宿のゴールデン街、柳街、三番街の底地買い業者が話題になりました。

限られた地主が街の急激な発展に伴い、その土地を他人に借す、その借主がまた別人に・・・といった具合に、いつしか複雑きわまりない貸借関係になっていきました。

なにせ当時でも坪平均2500万円といわれた土地で、零細な業者にはおいそれと手が出る土地ではなかったからです。

バーなどを開業するためには不動産ブローカーに依頼し、又借りや又又借りの斡旋を受ける必要がありました。

もちろん、トラブルも生じます。

そこで、そういうもろもろの条件をクリアーするために底地買いの業者が登場し、本来の地主に話をつけたあとその複雑な借地・借家権の持ち主をひとりずつたどり、それぞれに補償金を支払うことで土地をきれいにし、買い主に渡します。

歌舞伎町は現在もまた同じく借地、借家権が入り組んでいますので、当然トラブルも発生します。

トラブルが起きれば、商売人であれば一日も早い解決を望みます。

ましてや、もぐり営業であればなおさらなので街の顔役の手を借りるのが一番早い・・という事になるのです。

そこで紛争解決の手段としてヤクザが顔を出すのですが、底地買いにもいろんな組のヤクザがかんで店の営業権などのトラブルにも当然、顔を出します。

一流ホテルの建設で、どの建築業者を選ぶかにも裏でヤクザが介在していました。

新宿という土地にはそれだけ巨大な利権がからんでます。

大手といわれるヤクザ団体は全部首をつっこんでいました。

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当時は本来の仕事であるカスリと呼ばれるバー、クラブなどからのお守り料をとることもやっていましたが、ヤクザ業界には縄張りというものがあります。

シマとも死守りともいい、法律にはよらないヤクザの領土で、博徒ならこの縄張り内で、賭場を開く権利を有することになります。

的屋は庭場と称し、縄張り内の路上や神社などで露店を開く権利。

その領土に他の組が進出してくれば、縄張り荒らしとして、当然抗争が起こることもありました。

そのために縄張りを決め、ここからここまでがうちの領土だ、と業界内で宣言し、死んでも守るという決意表明から死守りとも呼んでいたのです。

しかし、組長の死亡やその跡目をめぐっての組内での内紛などで勢力が弱まったり、あるいは縄張りを接する組の力が強まり、侵食してきて、抗争のあげく縄張りを取られたりするケースもあり、特に山口粗方式と呼ばれるものは、地方に進出する際にその土地で対立する片方の組と縁を結び、その組の後押しをし、力を強めさせたところで、抗争を起こし、勝てば縄張りを奪う・・

本家である山口組の力がますます強大になる。

山口組の全国制覇作戦は、この方式で押し進められてきました。

当時、歌舞伎町の縄張りは東声会がもともとこの街に強かったとされ、小金井一家と八王寺一家が合併してできた二率会も戦前から新宿がシマとされていました。

「住吉会も稲川会も組織としてではなくとも息のかかっているところはあるし、山口組も代紋はあげないで他の名前でやっているが、やっぱり入っている」

といわれていました。

「テキ屋では戦後、東口にできたマーケットを仕切っていた安田組から飯島連合(全日本飯島連合会)、姉ヶ崎連合会、極東(極東関口一家)や寄居もいる。歌舞伎町は極東が庭場にしているが、いまはこと新宿に関しては博徒も的屋もやっていることに変わりない」

「博徒だからといって盆を開くだけではないし、的屋も露店商売だけではなく、店やキャッチバーなどからカスリをとり、もめごとにも首を突っ込んでいく。縄張りがあるといえばあるし、ないといえばない」

と業界内ではいわれていました。

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