山段芳春氏は
「わかりました。永中には前から、アンタが表に出たらアカンでと言うてまんのや。
石橋さんやったら会社の内容もええし、申し分なしやとおもうてま。
今後ともよろしくお願いしますわ」
この席で山段芳春氏は話題が京都信用金庫のことに移ると、「京信も井上理事長や、その下の寺岡たちがケンカばかりしとってどないもなりまへんのや。
こやつらもあんまり言うことを聞かんようやったら、近々ワシが言うて考え方の間違いを正さなアカンと思うてますのや」
と嘆いたといわれています。
当時、京都信用金庫では専務理事の寺岡氏らによるクーデター計画が発覚し大騒ぎになっていました。
4月に入ると、また「京都で会ってもらいたい人がいる」と言われ、林社長は京都を訪問。
この日は、許永中の案内でまず京都銀行の副頭取・専務・常務の肩書を持った人と会い「もう一人、京都で仕事する上においては会うてもらいたい人がおるんやが」と言われ連れていかれたところが、京都の会津小鉄会でした。
機動隊が100人くらい並んでいる会館の1階には、暴力団員数十人が両側に立ち並んでいました。
林社長は、許永中の紹介で高山登久太郎会長と名刺を交換しました。
当時、山口組の若頭補佐の一人、中野太郎会長が会津小鉄会の組員に襲撃され逆にボディガードが反撃したという事件が起こった京都では緊張が高まっていたところでした。
4月中旬、許永中はまた150億円という大金を要求しだしました。
「実は、石橋の株は新井の株と一緒に預けてありますのや。そやから石橋の株だけ出してくるわけにはいかんもんやから」
結局、許永中の代理役をした井手野下氏との折衝の結果、「作れるだけの金」ということで若築建設から7月末返済の約束で、60億円借りることにしました。
それと並行して新井組株買収の話もすすめられ、とりあえず林社長のロイヤル社が石橋産業のダミーとして買う事になりました。