そして府幹部が86年暮れ訪韓に同行していますが、府総務部長の出張命令によるものだったとされています。
河内長野市への東亜大学誘致問題は、当時の岸府政に影響力をもった許永中とその企業グループが、行政を動かして持ち込んだものといわれていました。
この東亜大学誘致話はその後90年秋のイトマン疑惑の発覚で再び注目されることになりました。
議会でのあらたな追及で、4回の隠密訪韓と許永中も出席していたレセプションに約200万円の公費が使われていたこともわかりました。
東市長も「一度、許永中氏に会い名刺を交換した」と許永中と接触した事実を認めました。
91年7月、イトマン疑惑は大阪地検特捜部が許永中、河村良彦イトマン前社長、伊藤寿永光イトマン元常務、佐藤雅光関西コミュニティ社長らを逮捕したことで事件になりました。
そして2年後の93年1月、河内長野市の東亜大学誘致問題は市幹部の汚職疑惑として新聞ネタになりました。
同年1月22日の各紙朝刊によると河内長野市の部長が許永中グループ企業の「関西コミュニティ」の土地購入を仲介し、同社役員から200万円を受け取っていたことがわかり、前年末に諭旨免職処分を受けていたということでした。
この疑惑は、部長が新年に入って役所に姿を見せず、周りがざわめいていたところ諭旨免職になっていたことがわかり発覚。
部長は前年の12月29日もいつもどおり仕事をしており、机も荷物もそのままででした。
よほど切羽つまった事情があったとみえ、事実新聞は大阪府警捜査二課が捜査していることを報じていました。
「関西コミュニティ」など許永中グループは、完全に行き詰まってしまった韓国大学分校誘致に代えて、買収した土地を宅地開発することを計画。
89年12月、東亜大学誘致問題で面識があった「関西コミュニティ」の役員が市部長に、住宅開発のための現地事務所用地さがしを依頼。
部長は知り合いの地元の土地ブローカーに土地さがしを頼み、その結果売りに出ていた同市神ガ丘の農家と宅地が見つかり90年5月ごろ取引が成立。
売却と同時に、農家が所有していた農地(約1100平米)に「関西コミュニティ」が抵当権をつけ農家は同社から約4千万円を借りました。
この取引の仲介の謝礼として部長に200万円、土地ブローカーに300万円支払われました。
カネの受け取りは前部長が窓口になっていて、土地ブローカーへの300万円は最初小切手だったのを、部長が自分の取引銀行で現金化して渡していました。
部長は土地取引があった90年5月ごろ、農地を宅地開発できるように農地転用の権限を持つ市農業委員会の行政側の事務責任者「総合事務局長」のポストについていました。
部長は同年10月まで同ポストについていましたが、翌11月1日付けで、「関西コミュニティ」が抵当権をつけた農地は宅地開発ができる「山林」に地目変更されていました。
200万円の謝礼はこの農地転用という職務権限にかかわるものではないか・・という疑惑が持ち上がりました。
市関係者によると部長は退職する前、東市長に「市長にも責任が及ぷ」と詰め寄っていた、といわれていました。
さらに部長は疑惑が発覚する前の92年10月、東市長に辞表を出していました。
この部長が市長に辞表を提出した92年秋、市議会議長を経験するなど有力者として知られていた公明党の市会議員が、突然同党から除籍されるということが起こりました。
それも地元の公明党からではなく、同党大阪府本部から河内長野市市議会事務局にその連絡が入るという、異例のことだったそうです。
この時期から府警捜査二課の捜査が身辺に及んでいることを示唆するような部長の動きであり、公明党市議の除籍騒ぎでした。