許永中その5

その石橋産業の関係者は、許永中氏の計らいで東京向島の高級料亭に招かれました。
そこには首相経験者もいたという自民党の閣僚と事務次官十数人が会食している一席でした。

 
この運輸族といわれた大物代議士は目の前で許永中氏を「兄弟」と呼んでいたそうで、東邦生命の前社長「太田清藏」氏の政界人脈だったと言われています。

 
東邦生命はその子会社の「社友総代」に、竹下登、中尾栄元建設相、中山正暉元郵政相をはじめ、大野明、中川一郎各代議士の名前が並んでいたそうです。

 
そのような中、渡辺美智雄代議士の大阪後援会の会長を務めていた野村周史という人物がいて、許永中氏はこの野村氏とは昵懇の仲で、その関係から、日本名「藤田永中」を一時「野村栄中」と変えていたほどでした。

 
その他にも、久間章生元防衛庁長官は許永中氏関連会社の役員を務めていたり硫黄島の慰霊祭では、同代議士が手配した陸自ヘリコプターに同乗、同島で、横綱曙、貴乃花が土俵入りを奉納した時も同行していました。

 
このように、許永中氏は、政界、財界、スポーツ芸能界と人脈を広げていきました。
そのような状況の中、都内にある不動産会社の債務処理に協力する形で、許永中氏関連会社、友好団体などを入居させていました。

 
その内訳は、かつて第一勧業銀行麹町支店で36億円詐欺横領事件で逮捕された人物が代表を務める会社であったり、仕手筋として知られる中江滋樹元投資ジャーナル代表が事務所を構えたりときな臭さが漂っていました。

 
中江元代表はイトマン事件にも登場するコムソン株の仕手にも関わり、また、パチンコ業界にも進出させ、株価の高騰とあわせて相当の利益を得たとされています。

 
これまでに、多くのバブル紳士たちが、摘発された後、世間をはばかるように、ひっそりとしているのに対し、

許永中氏は身長180cm、体重100kgの巨漢・スキンヘッドというその風貌と相まって逆に益々パワーアップしていくかのようでした。

 
検索のサジェスト機能とは、検索バーに文字を入力しているときに、Googleが検索候補を予測して自動的に表示するものですが、現在でも「許永中」と打ち込もうとすると「許永中 現在」と表示されます。

 

 

如何に多くの人が関心を持っているかだと思います。

スポンサーリンク




許永中その4

 

「許永中」
1947年(昭和22年)大阪市生まれ。

 

 
26歳で建設会社を興し、最盛期はグループ会社30社とも
40社ともいわれました。

 

 

 

 

 

身長180センチ、体重100キロを越えた巨体、言動はその風貌に相応しく、押しの強さは一目置かれたとされ、それでいて慎重な振る舞いも忘れないといわれ自らの事柄を語ることはありませんでした。

 

 

 

1990年、元山口組系列の組長経験者で「コスモポリタン」社長の「池田保次」氏が「東京へ行く」と言い残して消息不明となりました。

 

 

 

この池田社長が新井組の持株会社「テクノエンジニアリング」株を買い占めたとき、許永中氏は持株会社からの依頼で池田社長に接触、株の回収を図ったのが許氏と池田氏の出会いのきっかけとされています。

 

 

 

コスモポリタンが一躍有名になったのは、日本ドリーム観光株の買い占めで、同社の子会社「雅叙園観光」の経営権
を手中にしたことでした。

 

 

 

その信用力を背景に、東海興業、新井組などのゼネコン株の買い占め、大株主として影響力を行使、マスコミ上を賑わせました。

 

 

 

ただ、一部上場会社の経営権を、バブル景気を背景にアウトローが派手にやりとりする様が、司法当局や大蔵省を刺激しました。
機会メーカー「タクマ」を買い占めたところ、タクマが防戦で実施した増資が認められ、池田社長は一敗地にまみれるところとなったのです。

 

 

 

その一年後、先程の失踪事件がおこり、許永中氏が事業を引き継ぐことになりました。

 

 

 

その後処理である雅叙園観光の債権者として「伊藤寿永光」が登場しました。

 

 
いうまでもなく、河村良彦イトマン社長と共に特別背任の容疑に問われた主役で、不動産投資のノウハウで助け舟を出すように食い込んでいった背景には、コスモポリタンの財テクで被ったツケを処理する目論見があったとされています。

 

 
話は戻りますが、先述の新井組テッポウ株事件で、関西を中心にした証券会社十数社が被害を受けたとされていてそのうち、小川証券が清算に追いやられました。

 

 
そんな中、京都信用金庫の系列ノンバンク「キョートファイナンス」で一人の役員による内部告発がきっかけで、とんでもない事実が明るみになりました。

 

 
不良債権の殆どが、暴力団関係者をはじめ協和総合開発(伊藤寿永光代表)八幡ギャラリー(イトマン)許永中関連企業が占めていたのです。

 

 
また、再建計画の中で京都銀行株の買い戻し条件に何故か新井組株も加えられていて、石橋産業がその株を取得するという契約が交わされました。

 

 

 

石橋産業は、以前に別の暴力団関係者から株の買い占めを受けその回収で許永中氏と関わりを持つようになったのです。

 

 

石橋産業は、総額85億円を貸し付けた形をとりましたが、結局手元には担保に取っていた2千万円程度の絵画が一枚残っただけとなり、告訴もしましたが、捜査も途中で打ち切られていったのです。

スポンサーリンク




許永中その3

それにしても、なぜ宗教施設を造ろうとしたのでしょうか?

 

 

イトマン事件で絵画取引とゴルフ場の件での特別背任、関西コミュニティでの脱税事件で逮捕・起訴され、保釈金3億円をで平成5年12月にシャバに出てきた許永中氏は、極真空手の大山倍達の葬儀に出たり、韓国釜山の地元市議に招かれたりと忙しい生活を送っていました。
ただ、保釈中の身であり、あまり表立って動く訳にもいかず資金的に行き詰ってきました。

 

 

当時、池田市旭丘の土地も大阪府、東京都、大阪市、神戸市、厚生省、と主に税金などの滞納のため、行政からの差押えと、韓国の銀行からも差押えられ、競売開始の準備がなされていました。
そうしたことから、宗教法人に名義を移した方が税金面で優遇されると考えたようです。

 

 

事件の陰に許永中あり・・・
そういう形容がぴったりと言ってよいほど彼の周りには事件が付きまといました。
その舞台は政界、財界、企業、暴力団をはじめ、スポーツ界などさまざまな人脈を伸ばしていましたが、いずれも何らかのトラブルに顔を出す、という形での参入でした。
後に、「三豊恒産」への債権回収を妨害したとして警視庁捜査四課に摘発され、日本レース株買い占めで名を馳せた「岡本醇蔵」氏もその人脈の一人で、彼は大ヒットしたコミック「嗚呼花の応援団」の主人公「青田赤道」のモデルとされています。

 

 

話は少し横道にそれますが、このコミックに出てくる「南河内大学」は近畿大学応援団がモデルと言われたり、阪南大学がモデル、と言われたりしていました。

 

 

 

岡本醇蔵氏本人の弁では、ベースとなるモデルは近畿大学応援団で主人公は岡本氏自身とのことで、当時阪南大学に「青田赤道」という人が実在していた、とのことから近畿大学と阪南大学の2校が出てきているようです。

 

 

ともあれ、前述の日本レースをはじめ、イトマン、セゾン、東海興業、飛鳥建設、近畿放送(KBS京都)雅叙園観光、有豊化成(富山化学子会社)を焼き畑方式で食い尽くすとゼネコン新井組のテッポウ株事件(証券会社に株売買の注文を出しながら決済をしない)と新たに畑を見つけては焼いていく処世術を発揮するのでした。

スポンサーリンク