許永中その2

それが動き出したのは平成2年に入ってからのことです。

 
KBS京都の関連会社「KBS開発」(京都市中京区)が、KBS京都の海外からの訪問客を迎える「ゲストハウス」のようなものを建てる計画との説明でした。

 

 

その説明とは、KBS開発の取締役事業部長の肩書を持つ吉村某という人物からなされたのですが、住民が「土地の所有者である許永中氏との関係は?」の問いに対して、当初は口を濁していましたが、建築主として届け出ていた住所地が大阪市北区中崎2丁目にある許永中氏所有のビルであることが分かったのです。

 

 

このビルは「有恒ビル」といって、許永中氏が率いる「コスモタイガーコーポレーション」グループ数十社の司令塔であり、内田和隆KBS京都元社長をはじめ、山口組全国制覇の急先鋒だった柳川次郎元組長の専用部屋まであったとされていました。

 

 

 

後に、「KBS開発」はイトマン事件の主役となる伊藤寿永光氏が代表取締役となっていたことも、事件発覚と共に明らかになってきました。

 

 

イトマン報道が過熱しだしたころには、空き地に

 

 

「許永中に不渡手形を掴まされた」

 

 

「交通事故の交渉に許永中が割り込んできた」

 

 

などと、やくざ者、警察関係者をはじめ、色んな人が訪れるようになり、テレビ局、新聞社も付近住民にインタビューを試みたりと、またもやとんでもない騒動と共に建築計画は頓挫してしまったのです。

 

 

それから4年後のこと、池田市の立ち合いもと「宗教法人報恩人道教会」の地元説明会が開催されました。
当時、オウム真理教事件の問題もあり、特に読売新聞が許永中氏の敷地で宗教法人の計画があることに注目し、特集していました。

 
そのなかで、当の許永中氏のインタビューで「本当は、出来上がったら倉庫にしたい。周辺住民に『暴力団事務所』などと騒がれないように宗教施設という大義名分が必要だった」と述べていました。
この報道で、周辺住民が同宗教法人の井上豊次副座主に質問、副座主は「新聞はデタラメ」としながらも「許永中氏は、信者の一人」と回答。

 
ただ、本音としては、「池田市に土地を買い取ってもらいたい」とも洩らしました。

 
この、報恩人道教会は登記簿などによると昭和28年12月大阪市東淀川区に「天照大御神」を主神として「出雲日御碕大神宮教大阪分社」として設立。

 
昭和59年、現在の報恩人道教会に名称変更。

 
所在地を池田市の許永中邸跡に移転し大阪国際フェリーの元代表取締役である梶田允顕氏が代表者に就任しました。

 
また、その副座主の井上豊次氏はイトマン事件では、許永中グループの「関西コミュニティ」の脱税事件で大阪地検特捜部に逮捕され、のちに処分保留で釈放、グループ数十社の役員を務めた側近中の側近でした。

 

 

宗教法人法では、施設が2年間存在しない場合解散請求ができますが、それを意識してか許永中氏より大阪府私学課宗教法人係に届け出があったとのことです。

 

 

表札に掲げていた「釈天崇敬会」は宗教法人として認可されておらず、「勝手に使ってもらっているだけ」とし、また報恩人道教会とも無関係とのことでした。

 
ただ郵便受けを見る限り、許永中氏の日本名「藤田」の隣に「釈天崇敬会」と堂々と設置されており、誰の目で見ても不自然なものでした。

 
その後、しばらくは建設も止まったまま年月が経過していったのです。

 

 

許永中その1

昔は大阪の「不動産競売事件」といえば西天満にある大阪地方裁判所本庁でしたが、ほどなくして、交通裁判の庁舎が建て替えになったのを機に三国へ移転しました。

 

 

「赤切符を切られたことがある」
という人は、もしかしたら馴染みのある場所かも知れません。
もっとも、誰も馴染みたくは無いでしょうが・・

 
そしてここ数年前までは、三点セットと言われるブルーファイルに登記簿謄本も付いていましたので、閲覧することが出来ました。

 
その中に、ある時期、許永中事件関連の不動産がやたら多く出回ってていたのを覚えています。

 
今回のお話はその中のひとつです。

 
大阪府池田市といえば、大阪北部のベッドタウンで、その中でも閑静な住宅街が広がる「池田市旭が丘」という町があります。

 

 

この旭が丘の一角にある土地はイトマン事件の主役、「許永中」氏が実質オーナーの

 

 

「新日本建設」
「大阪国際フェリー」

 

 

が所有していて許永中氏が在日外国人登録をする際の届け出住所地ともなっていました。
この静かな住宅地に平成7年の春頃、突然、重機やショベルカーが持ち込まれました。

 

 

建築確認の看板には建築主「報恩人道教会」代表者は「大阪国際フェリー」の代表者が書かれていました。
時はあたかもオウム真理教地下鉄サリン事件が起きたちょうどそのころです。

 

 

付近住民は神経をとがらせていました。

 
というのも、許永中氏がその土地を昭和52年頃に購入してからというのも、いくつかの騒動があったからです。

 
許永中氏がこの閑静な住宅街、池田市旭丘の土地に建物を建てようとしたのは、これで3度目だったからです。

 
まず、購入した昭和54年に許永中邸が完成。

 
祝いに駆け付けたのか、黒塗りの外車が何台も近隣道路に横づけ、やくざ風の男が肩をいからせて歩くなど付近住民は恐怖を感じていました。

 
その後、昭和58年4月ごろ上場会社の「東急建設」が山口組系の暴力団組長を使って起こした恐喝事件で兵庫県警から日本名「藤田栄中」で指名手配され、新聞では顔写真入りで報道されました。

 
新聞によると、許永中氏は尼崎に本部を置く古川組の準構成員と書かれていたことから、住民は初めて暴力団組員と知ったのです。

 
その年の秋、許永中一家は突然引っ越し「家が宗教に売れた」と噂が広がりました。

 
そして、お寺の門のように改築され、許永中氏の日本名「藤田」の隣に、「釈天崇敬会」の郵便受けが設置されました。

 

 
その後、隣地も買収し1670平米にもなった土地を昭和60年にリクルートコスモス社に転売、許永中氏が実質オーナーの「新日本建設社員寮」を造る、という計画が不自然とされ、住民の反対運動。

 
その後、「リクルート池田旭丘」という通常の分譲マンションを建設、という事になりました。

 

 

ただ同社が分譲する物件の場合、住宅金融公庫が使えるのが普通なのに、このマンションだけ付かない、という不可解なものでした。

 
そうこうしているうちに、あの「リクルート事件」が勃発し、計画は頓挫。

 

 

土地はリクルート社から許氏が実質オーナーの「新日本建設」「大阪国際フェリー」にまた転売されました。
そもそもリクルート社と許永中氏のつながりは、東邦生命の大田清藏会長の紹介でした。

 

 

大田会長は許永中氏の金主とされており、リクルート社は当時展開していたマンション事業の地上げ業者として
許永中氏を使っていたとされています。

 

 

マンションも取りやめとなって、山門と白壁だけが残った草ぼうぼうの荒れた土地となって、まもなく訪れる
バブル期を迎える事になります。

 

 

 

<つづく>