会津小鉄会館売却&解体

新聞によりますと

会津小鉄会館として本部事務所に使われてきた

土地・建物が民間の不動産業者に売却されていたことが分かりました。

現在は解体工事が始まっていて買主は更地にしてから

活用を考えるとの事でした。

これが出来た時は「まあなんと立派な事務所が出来たんや」と思ったものです。

この辺りの当時はどちらかというと

しもた屋風の古い建物が多い立地で

モダンな建物という印象でした。

私が若いころお爺ちゃんという世代の先輩ヤクザ

は会津小鉄をマル二会と呼んでいました。

昔は大びょうたんではなく、

「丸に二」という字を当てた代紋で

その後会津小鉄の名跡を引き継いだのです。

博打場も七条にあり、「オキ条の賭場」

と言っていました。

オキとは元々テキヤの隠語で7を表すので

七条の7に掛けてオキ条と呼んでいたのです。

ちなみに1234567は

それぞれ

ヤリ、フリ、カチ、タメ、ズカ、ミズ、オキ

という隠語でした。

私たちの間で「オキ条」といえば

会津小鉄の賭場を指していました。

1989年築で取り壊すのはもったいない

気がしますが時代の流れで仕方ないです。

会津小鉄会館が現役の頃の映像がございますので

ご覧ください。

スポンサーリンク

許永中と石橋産業 その16

この質問にたいして田中弁護士は「私が全部預かっている」と返事しました。

そして正式の譲渡契約書を作成し、届けると表明。

後日、新井組株985万株の記番号の入った合意書が作成されました。

しかし、筆頭株主になるべくの肝心の新井組株は手に入らず、言われるがままに振り出した石橋産業裏書きのロイヤル社の約203億円の約束手形の行方にも不安を抱いたままキョートファイナンス社の社長に就任した林社長は、

「この春から石橋は許永中に85億円も出しているが、担保に受け取った新井組株もほとんど残っていない」と、山段芳春氏に相談をしました。

これに山段氏は「その話は聞かんかったことにしとくわ。

このままでは許永中に、石橋さんもアンタも踏みつぶされてしまうで。

許永中には前から言ってあったんやが、保釈中やしパチンコ屋でもやっておとなしゅうするように言うてあるんや。

それに、今公判の弁護士を引き受けてもろうとる吉永透先生には、許永中は本当に面倒見てもろうとるはずや。

そんなことまたやっとると、吉永先生に判ったら、先生はえらい怒りはるで。今先生に見放されたら永中も終わりや」

さらに以前、許永中がキョート社の「金の卵」と言った滋賀県のゴルフ場センチュリー滋賀に移ると「このゴルフ場は良いゴルフ場やし、理事長は京信の井上達也理事長なんやが、こやつが今ワシの言うことを聞かんとアホなことばかり言うとんのや。

そやから石橋さんに買うてもらおうと思うとんのや。

安うに買うて再開発したらええがな。

これはキョートファイナンスに金出しとる銀行団も知っとる物件なんやが、石橋さんが買うのやったら文句は言わんやろうし」

と言いました。

 

スポンサーリンク

 

これに対し林社長が「許永中は自分のものだと言っていましたが」

と答えると、山段芳春氏は「そんなアホな!」

「新井組の株式はあいつにやったもんやから自由にさしとるだけや」と言って、許永中が新井組株を手に入れる経緯について説明しました。

それは京都銀行の株式が暴力団の手に入ったことを契機にして、京銀側で買い戻しにかかったところ、許永中が出現。

地元京都の暴力団会津小鉄会なども間に入り、最終的には敵側にいた許永中が山段氏側に寝返り、それで京銀株が戻ったということでした。

その際、京銀株に新井組株が付帯してきました。

キョート社が許永中に融資して、1120万株までになった・・というものでした。

山段氏は、「よっしや、石橋さんに言うといてーな、ワシが何とか守ったるから」

そのことがあって京都入りした石橋社長と林社長は、山段氏と会談。

ここで、山段氏は許永中から石橋産業を守る方法として、許永中のイトマン事件弁護団長だった吉永透弁護士から許永中に言わせることが一番いい方法だとアドバイス。

それにはキョート社の弁護士からそのことを吉永弁護士に伝えるやり方がよく、それをスムーズにすすめるには各弁護士に石橋産業の顧問に就任してもらい、その声かけを元大阪高検・検事長の富田正典弁護士にやってもらうことがベストなどと提案しました。

その上で、山段氏主宰の「三樹会」に入会し、石橋社長は常任顧問、林社長は常任理事になるようすすめました。

山段氏によると、その「三樹会」は、京都銀行の頭取をはじめ、京都財界のお歴々、警察本部長クラスのOB、検察庁OB、弁護士などが参加した一流の会で、石橋産業を守る富田弁護士はその最長老だということでした。

 

スポンサーリンク

 

許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3

許永中と石橋産業 その4

許永中と石橋産業 その5

許永中と石橋産業 その6

許永中と石橋産業 その7

許永中と石橋産業 その8

許永中と石橋産業 その9

許永中と石橋産業 その10

許永中と石橋産業 その11

許永中と石橋産業 その12

許永中と石橋産業 その13

許永中と石橋産業 その14

許永中と石橋産業 その15

許永中と石橋産業 その7

山段芳春氏は

「わかりました。永中には前から、アンタが表に出たらアカンでと言うてまんのや。

石橋さんやったら会社の内容もええし、申し分なしやとおもうてま。
今後ともよろしくお願いしますわ」

 

この席で山段芳春氏は話題が京都信用金庫のことに移ると、「京信も井上理事長や、その下の寺岡たちがケンカばかりしとってどないもなりまへんのや。

こやつらもあんまり言うことを聞かんようやったら、近々ワシが言うて考え方の間違いを正さなアカンと思うてますのや」

 

と嘆いたといわれています。

 

 

当時、京都信用金庫では専務理事の寺岡氏らによるクーデター計画が発覚し大騒ぎになっていました。

 

4月に入ると、また「京都で会ってもらいたい人がいる」と言われ、林社長は京都を訪問。

 

この日は、許永中の案内でまず京都銀行の副頭取・専務・常務の肩書を持った人と会い「もう一人、京都で仕事する上においては会うてもらいたい人がおるんやが」と言われ連れていかれたところが、京都の会津小鉄会でした。

 

機動隊が100人くらい並んでいる会館の1階には、暴力団員数十人が両側に立ち並んでいました。

 

林社長は、許永中の紹介で高山登久太郎会長と名刺を交換しました。

 

当時、山口組の若頭補佐の一人、中野太郎会長が会津小鉄会の組員に襲撃され逆にボディガードが反撃したという事件が起こった京都では緊張が高まっていたところでした。

 

4月中旬、許永中はまた150億円という大金を要求しだしました。

 

「実は、石橋の株は新井の株と一緒に預けてありますのや。そやから石橋の株だけ出してくるわけにはいかんもんやから」

 

結局、許永中の代理役をした井手野下氏との折衝の結果、「作れるだけの金」ということで若築建設から7月末返済の約束で、60億円借りることにしました。

 

それと並行して新井組株買収の話もすすめられ、とりあえず林社長のロイヤル社が石橋産業のダミーとして買う事になりました。

許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3

許永中と石橋産業 その4

許永中と石橋産業 その5

許永中と石橋産業 その6