許永中事件その5 新日本建設と新日本育成会

この大末建設の河内長野市加賀田の所有面積は120ヘクタールで、計画書面積より10ヘクタール少なかったのです。

そのため大末建設所有地周辺をイトマン伊藤常務の関係会社であるスポーツマンクラブが、この年の秋に買収をすすめました。

しかしこうしたゴルフ場計画は当時、市民にまったく知らされていませんでした。

住民が知ったのは府と市へ計画が持ち込まれてから約1年後のことでした。

このときゴルフ場は許可の方向で動いていましたが、予定地の山林は新興の住宅団地に隣接していました。

住民はゴルフ場建設計画を知るや、反対運動にたちあがりました。

このゴルフ場反対運動は全国的にゴルフ場の農薬汚染がクローズアップされたこともありマスコミにも取り上げられ、ゴルフ場はとうとう計画中止に追い込まれました。

計画取り下げは、ウイングゴルフクラブの代理人として大末建設の社員が市を訪れて行われました。

ゴルフ場計画は翌12月市議会で東市長が「私の任期中にはゴルフ場計画は認めない」と言明。

もちろん当時、ゴルフ場の開発会社の経営主体がイトマン事件の主人公とは思いもよりませんでした。

 

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このウイングゴルフクラブは、88年11月、大阪府吹田市に設立されました。

そして伊藤元常務がKBS京都の取締役に就任する89年6月28日の前日、27日に名称を「ケー・ビー・エス・ゴルフ開発」に変更されました。

同時に後でイトマン事件で逮捕されることになる許永中のグループの一員が役員として入るということもありました。

許永中グループがねらったのは河内長野市だけではなく、お隣りの大阪狭山市で88年前後から高層マンション建設の許可取り業者として暗躍しました。

この業者は、許永中グループの中核企業新日本建設で、大阪狭山市内のライオンズマンションなど5か所で、大手業者と共同開発者になったり、許可取り業者の役割を果たしたりしました。

たとえば今熊3丁目で大倉建設と14階建て約370戸のマンションを計画したときは工事をするはずの大倉建設は顔を見せず、新日本建設が市との交渉や地元住民への説明役をしました。

しかしマンションヘの進入道路で生活環境が破壊されたり、歴史的な景観が台無しにされる恐れが出たため地元住民が強く反発しました。

同じく今熊7丁目にあった産業廃棄物埋め立て跡地に計画された13階建て270戸の分譲マンション建設でも同じような役割を果たし、こちらの土地は約10年前に埋め立てられた深さ10~20メートル、20万立方メートルの廃棄物の上に建てるという無謀なものでした。

この産廃跡地は大手のクボタハウスの所有地で、分譲マンションも同社が計画したものでした。

しかし、場所が場所だっただけに、通常の手段で建設許可をとるのは、無理とみて代理人として開発申請者になったのは和高エンタープライズという業者でした。

同社の谷社長は、許永中が75年当時、顧問をしていたといわれている行動右翼「新日本育成会」の理事長で、大阪市内では住民を威圧して地上げも手がけていました。

新日本育成会の谷辺会長は、許永中グループ企業の役員をしているという関係でした。

産廃跡地の開発で和高エンタープライズの側に立って、「どうせ許可されるのだから反対してもムダ」と住民を押さえにかかったのが当時周辺地域に住み、自治会長をしていた新日本建設の役員でした。

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許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

許永中事件その2 山口組系古川組と豊国信用組合  

許永中事件その3 関西コミュニティと土地ブローカー

許永中事件その4 伊藤寿永光元イトマン常務と協和総合開発

許永中その2

それが動き出したのは平成2年に入ってからのことです。

 
KBS京都の関連会社「KBS開発」(京都市中京区)が、KBS京都の海外からの訪問客を迎える「ゲストハウス」のようなものを建てる計画との説明でした。

 

 

その説明とは、KBS開発の取締役事業部長の肩書を持つ吉村某という人物からなされたのですが、住民が「土地の所有者である許永中氏との関係は?」の問いに対して、当初は口を濁していましたが、建築主として届け出ていた住所地が大阪市北区中崎2丁目にある許永中氏所有のビルであることが分かったのです。

 

 

このビルは「有恒ビル」といって、許永中氏が率いる「コスモタイガーコーポレーション」グループ数十社の司令塔であり、内田和隆KBS京都元社長をはじめ、山口組全国制覇の急先鋒だった柳川次郎元組長の専用部屋まであったとされていました。

 

 

 

後に、「KBS開発」はイトマン事件の主役となる伊藤寿永光氏が代表取締役となっていたことも、事件発覚と共に明らかになってきました。

 

 

イトマン報道が過熱しだしたころには、空き地に

 

 

「許永中に不渡手形を掴まされた」

 

 

「交通事故の交渉に許永中が割り込んできた」

 

 

などと、やくざ者、警察関係者をはじめ、色んな人が訪れるようになり、テレビ局、新聞社も付近住民にインタビューを試みたりと、またもやとんでもない騒動と共に建築計画は頓挫してしまったのです。

 

 

それから4年後のこと、池田市の立ち合いもと「宗教法人報恩人道教会」の地元説明会が開催されました。
当時、オウム真理教事件の問題もあり、特に読売新聞が許永中氏の敷地で宗教法人の計画があることに注目し、特集していました。

 
そのなかで、当の許永中氏のインタビューで「本当は、出来上がったら倉庫にしたい。周辺住民に『暴力団事務所』などと騒がれないように宗教施設という大義名分が必要だった」と述べていました。
この報道で、周辺住民が同宗教法人の井上豊次副座主に質問、副座主は「新聞はデタラメ」としながらも「許永中氏は、信者の一人」と回答。

 
ただ、本音としては、「池田市に土地を買い取ってもらいたい」とも洩らしました。

 
この、報恩人道教会は登記簿などによると昭和28年12月大阪市東淀川区に「天照大御神」を主神として「出雲日御碕大神宮教大阪分社」として設立。

 
昭和59年、現在の報恩人道教会に名称変更。

 
所在地を池田市の許永中邸跡に移転し大阪国際フェリーの元代表取締役である梶田允顕氏が代表者に就任しました。

 
また、その副座主の井上豊次氏はイトマン事件では、許永中グループの「関西コミュニティ」の脱税事件で大阪地検特捜部に逮捕され、のちに処分保留で釈放、グループ数十社の役員を務めた側近中の側近でした。

 

 

宗教法人法では、施設が2年間存在しない場合解散請求ができますが、それを意識してか許永中氏より大阪府私学課宗教法人係に届け出があったとのことです。

 

 

表札に掲げていた「釈天崇敬会」は宗教法人として認可されておらず、「勝手に使ってもらっているだけ」とし、また報恩人道教会とも無関係とのことでした。

 
ただ郵便受けを見る限り、許永中氏の日本名「藤田」の隣に「釈天崇敬会」と堂々と設置されており、誰の目で見ても不自然なものでした。

 
その後、しばらくは建設も止まったまま年月が経過していったのです。