許永中と石橋産業 その3

住吉会幹事長は、株券の預かり証を見せた田中弁護士は山口組の宅見若頭の弁護士で、弁護士バッジはつけていても山口組と同等と見ていました。

 

のちに、田中弁護士を連れてきた広島の暴力団・共政会関係者の身内は預けた石橋産業関連株などが他に流出したとして、同弁護士の懲戒請求をして結局3か月間の業務停止処分を受けることになりました。

 

そして住吉会理事長に「株券を実際に持っている人物」と紹介されたのが許永中被告でした。

 

年が明けて96年1月初旬、東京銀座の住吉会理事長の事務所で、許被告に会った林社長は

 

「実際に株券を持っている人間が来るというので待機していると姿をあらわしたのが許永中でした。

昨年春ごろだったと思いますが、銀座のクラブで名刺交換していましたし、イトマン事件でその中心人物だったとも知りませんでした。

名刺の名前は『野村栄中』と書かれてあったのですから。

その場に姿を現した許はものすごい形相をして入って来ました。

しばらく黙って私の顔を見ていましたが、『森さんてアンタのことかいな』と言うので、私も『株券を持っているというのはアナタですか』と言うと、急に顔を真っ赤にして大笑いしながら『ちょっと待ってえな、なんやアンタかいな』と何度も繰り返しながら、また大笑いしていました。

そして、しばらく間を置いて、『よっしや判った。それなら話は別や。明日か明後日連絡するさかい、ワシの事務所でゆっくり話そうか』と言いました」

 

と出会った当時を証言しています。

 

 

許永中は石橋産業にかかわるようになった経緯について

 

「内紛の相手方である異母兄弟の克規から、浩さんと林という男と二人で結託して石橋産業を好き勝手しとる。自分が真の後継者やと聞いとった。

それなら、なんとか助けたらなアカンと思うて、東京にいる山口組の後藤組を先頭にいつでも石橋産業を攻める体制を組んどった。

田中弁護士を連れてきた共政会関係者に 回収交渉にあたらせている。

克規氏がだましとられたという石橋産業株10万株とワシが持っとる14万2650株と合わせて、24万2650株を克規に持たせて、石橋産業に乗り込ませるつもりやった。

その上で石橋浩さんに社長をやめてもろうて、それに側についとる悪の林というのんを始末しょうかという話になっとった」

 

それが、顔見知りだったことが分かり穏便なやり取りなったのですが、かえってこれが許被告らの仕組んだ巨額手形詐欺事件に発展していくことになりました。

 

石橋産業側の窓口役になったロイヤル社の林社長が、連絡を受けて帝国ホテル東京のオフィスタワー10階の高級絨毯と豪華な大理石が敷き詰められ、韓国の大家が描いた大作の水墨画や有名画家の絵画がかかっていた許永中の事務所を訪ねることになりました。

 

そして許永中は流出した石橋産業株の買い戻しの条件を兵庫県西宮市の中堅ゼネコン・新井組の株のことを持ち出しこう切り出したのです。

 

「ワシの持っとる新井の株を1株3000円で買うてもらいたいんや。新井の株が1200万株あるので、ザッと360億ぐらいや。

今の値段が1400円ぐらいやから、間が150億ぐらいになるやろ。もちろんこれは一時的に預かってもらうだけで、3年間から4年の間、石橋さんに受け皿になってもらうだけの話や。

金の方は京信か京銀に話をつけて流し込むようにしますワ。この条件を飲んでくれるのや石橋産業の株をお返しすることができるのやが・・」

 

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その2

ロイヤル社の林社長によれば石橋産業では74年、先代の石橋建蔵氏が他界したことをきっかけにして、異母兄弟の確執が表面化しました。

 

石橋産業グループの一つで上場企業だった中堅ゼネコン若築建設の専務の座を追われた異母兄弟の石橋克規氏とグループ代表の石橋浩氏とは激しく対立しました。

 

95年10月頃「あんたとこの義兄弟の石橋さんのことなんじゃが、石橋さんの兄弟に克規さんておるじゃろうが?実はどうもこの人がヤクザにだまされて石橋産業の株を沈められてしもうたようだが、ついては石橋さんに会わせてもらえんじゃろうか~」

 

という電話が広島訛りのある男から入り、

 

「実は、克規の生活の面倒を見ていて、株券を回収してやった人がいる。このまま放置しておけば、石橋産業の株式もまたどこへ沈んでしまうかもわからんでしょうが~」

 

などと言ってきました。

 

翌11月中旬、石橋産業の石橋浩社長とロイヤル社の林社長の二人は、都内のホテルで電話をかけてきた男に会いました。

 

この男は、東京の暴力団・住吉会系の総会屋で、もう一人の男は、広島の暴力団・共政会関係者の身内でした。

 

二人が出かけた会談場所のホテルのロビーには、一目で暴力団組員とわかる男が十数人、周りの席に座っていました。

 

そこで、克規氏の面倒を見ているという男は同氏の生活費と株券回収費用として6000万円を要求。

 

しかし、株の買い戻しの件はあいまいにしたまま株を預けている人を石橋産業に連れていくという話になり、そこに現われたのが田中森一という弁護士でした。

 

田中弁護士は71年検事に任官し大阪・東京両地検の特捜部検事を務め、撚糸工連事件など大型経済事件の捜査に携わり、特捜のエースと呼ばれた人物でした。

 

88年退官した後は大阪で弁護士を開業。

 

 

検察捜査の手の内を熟知した弁護士としてその方面では知られていて、国際航業株事件の小谷光浩氏、射殺された山口組ナンバーツーの宅見勝若頭、そして末野興産の末野謙一氏などの顧問先となっていました。

 

石橋産業にあらわれたころには許被告と彼は盟友関係にあり、この席で石橋社長が「いくらで売ってもらえるか」と問い詰めたところ、田中弁護士はおもむろに株の預かり証を取り出し「この様に株券の方は私が責任を持って預かっている。帰ってこちらの方も検討する」と言いました。

 

裏に暴力団が関与していると察知した石橋産業側はロイヤル社の林社長の紹介で暴力団・住吉会理事長に相談、石橋産業側にたって住吉会の人間が交渉に立ち会うことになりました。

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その1

2000年2月6日第一ホテル東京の一室で首つり自殺の男性の遺体が発見されました。

 

男性は兵庫県川西市在住の不動産会社社長「井手野下秀守」氏。

 

その理由ははっきりとしませんが、イトマン事件で名を馳せた許永中にあったとされています。

 

許永中は失踪直前、東京の石油卸商社・石橋産業にからむ手形詐欺事件で東京地検の捜査対象になっていて家宅捜索されましたが逃亡で捜査は中断。

 

許永中が収監され年明けから特捜部が事件の再捜査に着手し、冒頭の井手野下氏はその重要参考人として、自殺する直前まで特捜部の事情聴取を2回受けていました。

 

井手野下氏は事件とのかかわりあいが深かったということですが、彼は大手信託銀行の元役員という経歴の一方、許被告の側近中の側近という裏の顔を持っていました。

 

一橋大学を卒業して62年住友信託銀行に入行した井手野下氏は、一貫して不動産融資部門を担当。

 

難波営業部長、本店開発事業部長を歴任し88年には取締役に就任。

 

92年2月からノンバンク・日本モーゲージの社長を務めました。

 

その後、98年6月まで全日空ビルディング専務、ついで副社長として出向していました。

 

許被告と知り合うようになったのは難波営業部長時代の85年ごろとされています。

 

当時、激しかったイトマンやリクルートコスモスなどと地上げにかかわるうち、許永中の存在を知るようになりました。

 

大阪の不動産会社の話によると愛人がママをしていた北新地のアカラに通いつめ、認められて側近になったそうです。

 

日本モーゲージは、大手金融機関がまだ許永中を相手にしていなかった87年当時、大阪府池田市の許永中の自宅やコリアタウン建設を計画した大阪市北区中崎の大規模地上げに百数十億円を超す融資をしていました。

 

94年10月、巨額の負債を抱えて倒産しましたが当時の社長が井手野下氏でした。

 

井手野下氏が日本モーゲージに派遣されたのは、関係があった許永中の焦げつき処理のためだったともいわれています。

 

その井出野氏の名前が出てくるようになったのは、石橋産業手形詐欺事件を通じて西宮市の中堅ゼネコン新井組株を保有していた京都のノンバンク・キョート・ファイナンス社の乗っ取り計画でした。

 

この東京地検特捜部が再捜査に着手した石橋産業手形詐欺事件はキョート・ファイナンス社の社長に就任した石橋産業の関連会社・エィチ・アール・ロイヤルの林雅三社長が、東京地検に提出した「陳述書」に詳しく述べられています。

 

これによると自殺した井手野下氏の名前がたびたび登場。

 

許永中は全日空ビルディング専務だった井手野下氏を林社長ら石橋産業側に紹介したとされています。

 

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