山段氏は、「石橋さんとワシが手を握っていることがわかるハズや」と、
自ら会長を務める損害保険代理業キョート・ファンドや「京都自治経済協議会」が入っている京都市中京区の通称山段ビルに、石橋産業の看板を出すことをすすめました。
この席で、山段氏はキョート社やセンチュリー滋賀が石橋産業のものになることを前提に、
「京都新聞も石橋さんのものにしたらええがな。新聞社のオーナーと言うのは実質なろう思うても、簡単にはなれるものと違いまっせ。
キョートファイナンスの借金は林さんが整理してくれたらええんや。
京信の件は井上理事長がワシのことを誤解してもうて、
アホやからごちゃごちゃ騒いどるようやが、こヤツは許せんのでこれからワシが反撃しょうと思うてまんのや。
とにかく石橋さん、永中のことはワシが守ってやるさかい心配いらんで」
97年に入って、山段ビルのフロアーを借り受け、石橋産業の看板が出されました。
ところが2月下旬、山段氏推薦の弁護士たちが、突然顧問辞任を申し出ることになり石橋社長らは山段氏から離れていくことになりました。
96年いよいよ資金繰りに詰まっていた許永中は
「石橋の財務内容調べたんやが、ホンマに金ないな。頭に来るで」
「ウダウダぬかしとんやったら150億作って、元にもどそうやないか」
などと林社長に言うようになってきました。
不信と恐怖を覚えた林社長は、今度は「許永中はワシに頭が上がらんのやから何も心配いらんで」
と、ことあるごとに言っていた田中森一弁護士に相談することにしました。
「永中が拘置所にいた時、ワシに面会を求めて来たんやがそれはある人に頼んでワシに言うて来たんや。
ここから出してくれたらワシは先生を一生の恩人にする。
先生頼むからワシの兄弟になってくれ!言うて涙をポロポロ流しながら頼んできたもんや。
そやから許永中はワシにだけは頭が上がらんのや」
とも明かしていた同弁護士は、
「よっしや、心配すんな」
と、引き受けました。
その直後、許永中から「先生から話は聞いたがナ」と林社長のもとに電話が入りました。
それは、許永中が石橋産業に100億円渡す代わりに石橋の信用力で儲けさせてもらいたいというものでした。
石橋の名前を使って株取引するいわゆる一任勘定ということになります。
林社長は許永中の申し出を石橋社長に相談。
田中弁護士と相談してからということになり、大阪入りした林社長と田中弁護士が会談し「安心してまかせろ」ということになりました。
96年2月15日大阪市北区のホテル阪急インターナショナルのスイートルームに許永中、田中弁護士、石橋社長、林社長の4人が集まりました。
ここで許永中は石橋産業の運営を自分にまかせれば、儲けてその中から100億円を石橋産業側に渡す。
別に石橋産業グループで必要としない会社を許永中に譲ること。
さらに「石橋産業さんはワシが入り込んだら、一時期泥まみれになる可能性がある」
と言って石橋氏は石橋産業社長を退任し、新社長を選任する必要があると提案しました。
新社長には石橋産業の専務が就任することで話がまとまり、翌11月16日ホテル阪急で会議がおこなわれ、許永中側には井手野下氏、側近の尾崎稔、田中久則両会社役員など新たに加わり、石橋産業側には新社長に予定していた専務が加わりました。
石橋産業専務は
「突然の呼び出しで、何がなんだかわからずに来ました。
石橋産業の社員は石橋浩社長あっての社員ですし、とてもお受けすることはできません」
と、新社長への就任を拒否しました。
この唐突な社長就任要請に驚いた専務は、こう言って林社長に詰め寄りました。
「林さん、一体どうなっているんだ。石橋社長は一体何を考えているんだ。
社長になるくらいなら会社を辞めますよ」
その後石橋社長と林社長は帝国ホテル東京の許事務所に呼び出され、許永中、田中弁護士の4人で会合を持ちました。
つづく