許永中のブレーン 岡本醇蔵 その1

今から20年ほど前、とある雑誌のインタビューに岡本醇蔵氏が答えている一部です。許永中氏のことを語っている部分は次回の記事になりますが、今回は花の応援団の箇所が興味深いので引用しました。

「花の応援団」の主人公は確かにワシなんやけど、青田赤道いう名前の奴は阪南大学におった。

彼の弟は近大におって、ワシが4年の時1年やった。

当時、ワシはびっくりするほどうるさいいうより有名やったから、ワシの名を使うのは恐れ多いということで、その兄弟で話して、このちょっととっぼい兄貴の名を表に出したわけや。

だから、あの話は全部、本当の近大応援団のことや。

阪南大の応援団なんかまだ当時できて4,5年やったから、歴史も伝統もあらへん。

漫画が出て、すぐ日活映画から話がきたけど、それやったら守銭奴になると反対し学生の出演も断った。

註(76年、同名で映画化。監督・曽根中生。好評につき、翌年にかけ『役者やのォー』 『男涙の親衛隊』と、第3弾まで制作された)

でも、『600万円寄付させてくれ』というから、『近大の名は出さず、近代節を歌うならその歌詞は変え』と。『団旗の持ち方も近大の伝統ある持ち方するな』と。まあいろいろ条件をつけて許したわけや」

「当時、応援団は体育会のなかにも属さない独立団体やった。

学生が授業料を払う時、同時に年会費、ひとり200円の応援団費を一緒に納めとった。

つまり、近大においては全学生は応援団員で、応援団というのは全学生のリーダーであると。

ワシはその団長をやったわけや。

そもそも近大の応援団は先代の世耕弘一総長、文部大臣までした人やけど、この人が終戦直後にMPから右翼思想学者ということで追放されて、その時のガードマンについてた学生である世耕が自由解放になった時、することなくなって、何かしようということでできたのが応援団。

そういう歴史があるだけに、特別扱いやったわけや。

他の応援団に負けんように全国から選りすぐった奴が特別推薦で来たわけや。

ワシと同じでな」

「日大みたいなもん、絶対に左翼に汚染されへん学校やと自慢しとった日大でも、東大や他の大学からポ~ンと全学連が入り込んで来て、洗脳されてひつくり返った。

そやから、ワシは日大に学生運動潰しの応援に行ったり・・。

近大も立命館もそないして、左翼系の学生がずっと入って来てな。

いちばん学生運動華やかな頃や」

「ワシは当時、道歩いたって、誰も蜘蛛の子を散らしたようにサーッと逃げて、袖も触れんかったけど、そのワシでも怖かったな、左翼だけは。

座り込みして、ともかく近大の場合、先代が亡くなって息子が跡を継いで、それに対して「世襲制反対」、それに「授業料値上げ反対」とかやっとる。

近大にそんな思想持っとる奴はおらんと思うとったら、工学部にあとで東大阪市で共産党の市議やる奴がおってな、ワシと同期や。

それがしっかりやる。ワシら、ともかく保守やんか。

そいつらが夜中の2時3時までガリ版刷ってるんやけど、その頃を見計らってガソリン撒いて火つけまんの。

また、校舎の屋上に長椅子持ってって、鉄の長椅子、あれ、ほんま重いんや、それを集会しているところへ投げる。

ほんで集会している学生の頭がバーンと割れて、血がバッと出て。

ワシがゾッとしたのは、それやのにその場を誰も動かせん。

それから日大に乗り込んだ時はワシ、角材の先に長い釘10本ぐらい打って、それ振り回して、いっぺん散らしたろう思うてな。

それで、ボコーンと相手の腕に釘が刺さってな、抜くにも筋に引っ掛かって抜けへん。

飛んで逃げると思ったら、それでも逃げへん。信念やな。

しっかり教育しよるなと思たわ。

ワシら、思想も何もあらへん。

お祭りや。スポーツの延長みたいなもんや。

当時、最寄り駅から大学までの道の電柱には、『岡本は学校の飼い犬。暴力団にも勝る悪党』なんてビラを貼られたもんや」

「当時は、一人ぐらい犠牲者出してもええと本気で思っとった。

それに、もしそういう殺しかねない事態になったら、皆でバーと取り囲んでかき乱して、誰が犯人が分からんように、と打合せしてたしな。

今思うとゾッとするけど、小の虫は殺してもしかたないと。

機動隊からも、ワシらは『(左翼学生の)足でも何でも折ってええ』と。

いわゆる国家権力と一緒になってやってたからな。

そんな時代やった」

「マンション借りて、車は買った。当時の年間活動予算は1000万円ぐらいあったかな。

それを体育会に今日は何人いうて学生運動潰しに動員させて、『はい何円』 いうて」

「高校時代からある人(後に、警官になる)に目かけてもろうとって、大学1年の時は組事務所から登校しているような感じやったんやけど、2年になった時、その先輩に呼び出されてな、大阪駅の裏の倉庫連れていかれて、目茶苦茶どつきよるねん。

ワシら、どつかれても立ち上がって礼いうのが礼儀やけど、それにしてもごっつうどつきょる。

どないしたんと思ったら、『お前、ヤクザするのか、学生するのかどっちか選べ!』言われてな。

その時、学生のほう取りましたんや」

「高校も大学も後輩の森崎という男が、『アーデル・ミートパッカー』という肉屋に就職して、当時、まだ山本食品いうとったけど、そこの山本社長が『いい先輩がおったら世話せい』ということで、森崎からワシに話がきた。

『肉屋で何するんや』いうたら、『不動産始めますんねん』と。

『ワシ、不動産なんかしたことあらへん』いうたら、『そやけど、右翼しながら金融屋してた時、謄本とか読んだでしょう』と。

『そらそうや。物件知らんかったら、カネ貸せん。

手形の割引もしとったがな』と。

それで学校関係以外で初めて親方持ったんや。

山本さんな。肉屋いうても、この人が初めて肉のパック売りやりだしてな、それまでは肉屋いうたら職人が注文の都度さばいておったんや。

それをこの人はステーキはステーキと、各市場や商店街の店にパックにして冷凍車で配って回った。

大変な人や。毎日、2000万円で仕入れた肉が5000万円になる。

ごつつい商売や。

そのカネで不動産をボンボン買うてやで、就職して3年目からは、ワシが不動産部門「アーデル・ホーム」の副社長として建売に進出して。

マンションなんかは土地を買うて、あとは長谷工とかのニーズに合わせて許可とったってな。

部落解放同盟で皆やるから、許可も早いがな。

つづく

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