私がもし神戸の井上組長だったら

私が井上組長やったらこうする・・という話で、ちょっと後出しジャンケンみたいな話になりますが、まだ総本部に使用制限掛かっていなかった時、マスコミが井上組長の失策として、分裂時総本部を押さえておかなかったから、というのがありました。

でもそれは違うと思います。

押さえるべきものは、建物ではなくて代目継承の時に引き継ぐ三種の神器でした。

(山口組組旗 白絹一反 任侠奧伝一巻 守り刀一振り)

分裂前にあらゆる手段で三種の神器がどこにあるか調べておいて、力づくでも奪取するべきでした。

極道は「目に見えない力」いうのが動いています。

三種の神器は初代から綿々と続く目に見えない力を引き継ぐものです。

信じがたい話ですが、初代から今までの徳分も業も引き継いでいるのが三種の神器。

よく、山口組を抜けた組が実力派の組織だったのに抜けたとたんに弱体化しているのが証明しています。

菅谷組、竹中組、一和会。

決して、一和会に行った組が戦闘能力が低かったワケではありません。

むしろ当初は勝っていました。

それでもやはり目に見えない力が働いていたのです。

井上組長も三種の神器を奪い取って「こちらが本物の山口組や」と稲川会をはじめ親戚団体ほか内外に知らしめるべきでした。

極端なはなし、七代目山口組を宣言してもよかった。

多少手続き上問題有ったとしても六代目が文句いうてきたら、「アンタも五代目に似たようなことして今の座布団があるんやないか」

と言ってもよかったでしょう。

そして、割った当初は、まだ人、モノ、カネも揃っていた訳ですから、高山若頭が出てくるまでにすべてのリソースを注入して、今の時代ですからドローンを使いこなせる者を育成しておいて、高山若頭が出てきたら、高山氏と弘道会の上部何人かをドローン攻撃で再起不能状態にしていたらもう勝負ありだったかもしれません。

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3月暴力団関連ニュースを見て

今月は大きな事件はありませんでした。

どちらかというと、ヒットマンに対する判決のニュースが多かったです。

その中でも嬉しいニュースとしては
朝日新聞にありましたが

工藤会の元組員がかつて反対運動で襲撃した商店街で
皆に認められうどん屋を開業した記事。

このような記事を見ると本当にうれしいですね。

やはり、やくざからカタギになるのは並み大抵の事ではありません。

その苦労は如何ばかりか・・

姫路にも元竹中の若い衆していた人が
NPO立ち上げてそのようなお手伝いしているようですが
本当に大変な事やと思います。

もう一つビックリした記事は新聞各社が報じていましたが
尼崎市がヤクザの家を買い取るという話。

これは不動産に携わるものであればビックリと思います。

尼崎といえば古川組の事務所が競売に出されたときがあって
素人は絶対手ださんやろし、私も入札したろかな・・

思ったことがあったけど、したらしたで
絶対警察からの調査が入るやろし
面倒な事になりそうやな~と見ていたら
案の定、入札した者も逮捕されとった。

そんなこともあったな~なんて懐かしい思い出に浸っております。

解説動画には古川組の競売資料も少し写っています。
ぜひ興味のある方はご覧ください

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新風営法施行直後の新宿歌舞伎町

新宿歌舞伎町。昭和60年新風俗営業法が施行されたときの裏風俗の女性の数は約6000人といわれていました。

3000軒の正規営業店で働く女性の数を1軒5名と計算しても15000人。

合わせて2万人強の女性たちが、この歌舞伎町にいることになっていました。

更に韓国、フィリピンなどの女性を置いた外人バーが急増、外人ホステスの総数も800~900人、そして約300といわれるラブホテルも林立していて、欲望は充足される街・・

新風営法成立前の歌舞伎町は世界に冠たる欲望産業の街と呼ばれていたほどで欲望産業の陰にヤクザあり・・だったのです。

この街は、戦後に開けたいわば新興の盛り場で同じ東京でも浅草や銀座と異なり、伝統や格式などなく、創意工夫やエネルギーに充ちた新興勢力や業者たちが切り取り、開発してきた街でした。

加えて、敗戦直後の混乱時代に街としてのスタートを切っているために、当時羽振りがよく、さらに経済的に先見の明を持っていた台湾人や韓国人が土地を買い、ビルを建て、当時でも歌舞伎町の半数以上は彼らによって占められていました。

また当時、都庁の移転に伴い、同じ新宿のゴールデン街、柳街、三番街の底地買い業者が話題になりました。

限られた地主が街の急激な発展に伴い、その土地を他人に借す、その借主がまた別人に・・・といった具合に、いつしか複雑きわまりない貸借関係になっていきました。

なにせ当時でも坪平均2500万円といわれた土地で、零細な業者にはおいそれと手が出る土地ではなかったからです。

バーなどを開業するためには不動産ブローカーに依頼し、又借りや又又借りの斡旋を受ける必要がありました。

もちろん、トラブルも生じます。

そこで、そういうもろもろの条件をクリアーするために底地買いの業者が登場し、本来の地主に話をつけたあとその複雑な借地・借家権の持ち主をひとりずつたどり、それぞれに補償金を支払うことで土地をきれいにし、買い主に渡します。

歌舞伎町は現在もまた同じく借地、借家権が入り組んでいますので、当然トラブルも発生します。

トラブルが起きれば、商売人であれば一日も早い解決を望みます。

ましてや、もぐり営業であればなおさらなので街の顔役の手を借りるのが一番早い・・という事になるのです。

そこで紛争解決の手段としてヤクザが顔を出すのですが、底地買いにもいろんな組のヤクザがかんで店の営業権などのトラブルにも当然、顔を出します。

一流ホテルの建設で、どの建築業者を選ぶかにも裏でヤクザが介在していました。

新宿という土地にはそれだけ巨大な利権がからんでます。

大手といわれるヤクザ団体は全部首をつっこんでいました。

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当時は本来の仕事であるカスリと呼ばれるバー、クラブなどからのお守り料をとることもやっていましたが、ヤクザ業界には縄張りというものがあります。

シマとも死守りともいい、法律にはよらないヤクザの領土で、博徒ならこの縄張り内で、賭場を開く権利を有することになります。

的屋は庭場と称し、縄張り内の路上や神社などで露店を開く権利。

その領土に他の組が進出してくれば、縄張り荒らしとして、当然抗争が起こることもありました。

そのために縄張りを決め、ここからここまでがうちの領土だ、と業界内で宣言し、死んでも守るという決意表明から死守りとも呼んでいたのです。

しかし、組長の死亡やその跡目をめぐっての組内での内紛などで勢力が弱まったり、あるいは縄張りを接する組の力が強まり、侵食してきて、抗争のあげく縄張りを取られたりするケースもあり、特に山口粗方式と呼ばれるものは、地方に進出する際にその土地で対立する片方の組と縁を結び、その組の後押しをし、力を強めさせたところで、抗争を起こし、勝てば縄張りを奪う・・

本家である山口組の力がますます強大になる。

山口組の全国制覇作戦は、この方式で押し進められてきました。

当時、歌舞伎町の縄張りは東声会がもともとこの街に強かったとされ、小金井一家と八王寺一家が合併してできた二率会も戦前から新宿がシマとされていました。

「住吉会も稲川会も組織としてではなくとも息のかかっているところはあるし、山口組も代紋はあげないで他の名前でやっているが、やっぱり入っている」

といわれていました。

「テキ屋では戦後、東口にできたマーケットを仕切っていた安田組から飯島連合(全日本飯島連合会)、姉ヶ崎連合会、極東(極東関口一家)や寄居もいる。歌舞伎町は極東が庭場にしているが、いまはこと新宿に関しては博徒も的屋もやっていることに変わりない」

「博徒だからといって盆を開くだけではないし、的屋も露店商売だけではなく、店やキャッチバーなどからカスリをとり、もめごとにも首を突っ込んでいく。縄張りがあるといえばあるし、ないといえばない」

と業界内ではいわれていました。

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