許永中事件その4 伊藤寿永光元イトマン常務と協和総合開発

 

土地さがしを依頼し金を渡した「関西コミュニティ」の役員とは「関西新聞」の池尻社長でした。

 

そして公明党を除籍された有力市議は、佐生総一郎議員。

 

共通点は隠密訪韓の同行者ということでした。

 

「2千万円のカネが動いた。しかし共産党につぶされた」

 

といわれ、いまではまぼろしとなった東亜大学分校誘致問題について、河内長野市議会のベテラン市議の一人は

 

「もともとこの話は、隣接の富田林市の市会議員が上の方に言われて同市に持ち込んだものだ。しかし、うまくいかなかった。それで、今度は河内長野市の同じ会派の議員が動くことになり、同僚議員の親戚でもある業者の所有地をねらった。しかし、これも拒否された。それで、あることで困っていた市内の山持ちに土地交換をもちかけ、河合寺の土地でやることになった。なぜ、市会議員が訪韓に同行していたのか、あるいは、最初に市長と『関西新聞』を引き合わせたのかナゾが解ける。だから当時、某政党の大幹部もかかわっているといわれた」

 

「だいたい、大学を設置するには学校教育法にもとづいて文部省の許可がいる。外国の大学の分校を日本につくったなど例がない。この話は最初から無理があった。府のある部長も市に『外国の大学誘致なんかできない』と忠告したという。
結局、ダメということがわかり、急遽、知事認可の各種学校に切り換えた。それでもうまくいかないので、許永中が怒った。それをなだめるため、ホテルプラザでパーティーを開いた。東市長の勇み足に、地元の有力代議士も『バカなことをするな』と注意したという。いずれにせよ、一自治体のレベルを超えた奥の深い問題だった」

 

許永中がねらった河内長野市に、イトマン事件のもう一人の主役、伊藤寿永光元イトマン常務もゴルフ場進出をはかっていました。

 

東亜大学分校誘致話が市長の「白紙撤回」表明で、完全に行き詰まってしまっていた88年7月のことでした。

 

当時、伊藤元常務が代表取締役を務める名古屋市の「ウイングゴルフクラブ」が大阪府と地元河内長野市に提出した計画概要によると、予定地は同市加賀田の山林。面積130ヘクタールで18ホール。

 

名称は、「ウイング加賀田ゴルフクラブ」で、ゴルフ場の設計、施工業者は一部上場の「大末建設」でした。

 

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もともと予定地一帯は大末建設が20年近く前の1973年から75年にかけて買収。

 

ゴルフ場を計画したものの、自然破壊の大規模開発に厳しい基準でのぞんでいた当時の黒田革新府政のもとで、許可されずにきたものでした。

 

それが岸府政になって大規模開発優先に方向転換。

 

いわゆるリゾート法を背景にした第三次ゴルフ場建設ブームのなか新設基準が大きく緩和され、この年には府下3か所で許可されるという情勢でした。

 

なぜ伊藤常務が河内長野市へ進出をはかったのでしょうか。

 

それは「大末建設」との取引関係からとみられています。

 

たとえば、伊藤元常務の本体企業「協和総合開発研究所」は、この年の3月、東京都葛飾区の宅地を担保に、「大末建設」から極度額24億円の融資を受けていました。

 

会社登記簿によると、伊藤元常務の「ウイングゴルフクラブ」の設立は、88年5月。

 

府市へのゴルフ場開発計画書提出の2か月前であるところからウイングは河内長野市進出のためにつくられた会社でした。

 

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許永中事件その1 河内長野市韓国東亜大学誘致

許永中事件その2 山口組系古川組と豊国信用組合  

許永中事件その3 関西コミュニティと土地ブローカー

許永中と石橋産業 その4

当時、新井組の筆頭株主は伊藤寿永光(いとうすえみつ)元イトマン常務の会社である協和総合開発研究所でしたが実質的には許永中が所有していました。

 

その保有株1120万株は京都のノンバンクであるキョート・ファイナンスにグループ企業への融資約470億円の担保として差し入れられていたのです。

 

突然の新井組株の買い取り話に、「石橋にはそんな金はありません」と即座に返答した林社長に、「世間のやつらワシのことを殺し屋やいうとるらしいけどほんま迷惑な話や。コスモポリタンの池田保次社長も行方不明になっとんのやが、それもワシが途中でジャマになったから消したというウワサになっとるらしいのや!」

 

と許永中は暗に脅しにかけました。

 

さらに1400円の株をどうやって3000円で買うのかと疑問をぶつける林社長に許永中は

「受け皿になってもらう時はワシの金で3000円以上の値にしときますがな。ちょっと提灯に火がついたらすぐでんがな。ま、そのへんのことはワシらの仕事でっさかいまかしておくんなはれ」と言いました。

 

株価操作で新井組株の値を上げてみせるから大丈夫・・という説明に結局乗ることになりました。

 

これが97年、業界で新井組と若築建設の合併話が飛び交うもとになり、一時期2500円台まで高騰後すぐに600円台まで暴落するといった新井組株の乱高下の原因となりました。

 

石橋産業側が新井組株の買い取りを了承したところから、許被告は「ま、見とっておくんなはれ。石橋さんをピカピカにしてみせまっせ! 財界でも大物に必ずしますからな」

 

石橋産業の石橋浩社長が、許永中と初めて会ったのは96年2月中旬頃、東京銀座の中華料理店で許永中は同社長に「アナタとは今後フレンドリーな関係で仕事に取り組みたい」と申し出ました。

 

以前の記事で書きました自殺した川西市在住の不動産会社社長井手野下氏の名前が許永中の口から出てきたのはちょうどこのころでした。

 

許永中は井手野下氏のことをロイヤル社の林社長に紹介。

 

「林さん、実はワシには取っておきの切り札がありまんのや。若築のメインバンクは住友信託でっしゃろ。そこのOBで井手野下秀守という人物がおります。

ワシが逮捕されてからは政治家や大企業のトップ連中もみんな我が身の保身ばっかりで寄り付きもせなんだけど、この井手野下いう人は大したサムライですわ。

週に一度はワシの女の店に来て励ましてくれたりして自分の地位など考えずに力づけてくれたもんです。

この人は住信から現在全日空ビルディングに出向中の立場なんやが、一度石橋さんと林さんと3人だけで会うてもらえんやろか。

とにかくワシが一番信頼している人やしワシのゴールデンカードであることは間違いない人や」

 

井手野下氏と会食することになり会談はいい雰囲気で終わりました。

 

会談が成功したことを確認した許永中は井手野下氏をいったん石橋グループの若築建設の役員にさせ、そこから50%の株を保有したあかつきには新井組社長として出向させることを提案しました。

 

しかし当時、井手野下氏を全日空ビルディング専務として出向させていた住友信託銀行側が難色を示したためこの案は見送りとなりました。

 

これは新井組をダシにして側近の井手野下氏を石橋産業に送り込み、あわよくば乗っ取りを図ろうとしていたことが見え見えの提案でした。

 

次に許永中は「アンタがキョートファイナンスの社長になってくれたら、ワシの匂いが消える」

 

と持ち出してきたのは林社長が京都のノンバンク・キョートファイナンスの社長に就任させることだったのです。

 

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許永中と石橋産業 その1

許永中と石橋産業 その2

許永中と石橋産業 その3