桃源社 その2 ビルの短期賃借権

所有権や賃借権の仮登記をタテに深夜に荷物を運び込んで強引に占拠する暴力団の不動産ビジネス。

 

佐々木社長によると

「品川区内の貸賃マンションでは、契約の際に米国の大統領と経営者が握手をしている写真の載ったパンフレットを見せられ、まともな会社だと思って信用したところ、ほどなくして別の人間に転貸されてしまった。確かにこちらもガードの甘いところはあったかもしれないが、やつらのやり方は本当に巧妙で、しばらく時間を経てから『やられた』と気付くんだ」

とのことでした。

賃借権とは、不動産の賃貸借契約に基づいて賃借人が物件を使用する権利のことで、現在は法律が改正されて多少マシにはなりましたが、当時は登記簿に「短期賃借権設定」という文言が散見されました。

 

当然、登記簿上は暴力団の名前ではなく、会社名または個人名ですが、見る人には当然「まともな人が賃借権など打つはずもない」と思うのが普通で、金融屋か暴力団関係者と思わせるわけです。

 

それにより物件価値が下落することを利用し、貸し手や債権者、競売落札者などに「抹消代」として多額の現金を要求する手口が目立ち、当時暴力団の有力な資金源になっていました。

 

バブル崩壊後は、金融機関が競売によって所有権を移転しょうとするのに対して、債務者側の対抗措置として活用される例が目立ちましたが、その後桃源社の場合のように、第三者が何らかの方法で賃借権登記を実行し、物件を占有する占有屋やこれを解決する事件師などが暗躍しました。

 

佐々木社長にとって対抗手段は、訴訟しかなかったのですが登記の抹消などを求めて計約60件、延べ300人を相手に裁判しましたがものすごい手間・時間・カネのかかるものでした。

あるビルの明け渡しの際には、弁護士がヘルメットをかぶり、防弾チョッキを着込んで随行するなど、常に危険と隣り合わせで、数人の男に囲まれてすごまれたり、ビル内に斧やガソリンの缶が置いてあるのを見つけ、悪寒が走ったこともあったといいます。

 

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佐々木社長は昭和39年に慶応義塾大学大学院医学研究科を修了し、都内に診療所を開設。その後、患者の一人から不動産取引を勧められて、昭和46年に桃源社を設立しました。

 

バブル期に六本木、赤坂など繁華街を中心に不動産投資を拡大して、商業ビルや高級賃貸マンションなど100棟以上の物件を所有するまでになり、米国の雑誌「フォーブス」に世界有数の資産家と紹介されたこともありました。

 

その資金力を支えたのは、住宅金融専門会社(住専)や日本長期信用銀行系のノンバンクなどでバブル崩壊後、巨額の焦げ付き債務だけが残りましたが、自ら積極的にテレビ出演するなどして「借り手の論理」を展開。

 

平成5年には「地価の下落は政府の土地政策の失敗が原因」として、同業者8社で国や日銀を相手取り、総額3億5千万円の賠償を求める訴えを起こしました。

 

しかし平成8年には、東京地検と警視庁に競売入札妨害などの疑いで逮捕され、懲役2年、執行猶3年の有罪判決が出されました。

 

「自社ビルが不法占有された」と主張する一方、自らも一部の物件で競売逃れの行為があったため、「暴力団と同じ穴のムジナではないか」とも言われました。

 

それに対して佐々木社長は

「私が暴力団とつながっているのでは・・と思う人が多いかもしれないが、まったくの誤解。ああいう連中が嫌いで妥協したくないから訴訟を起こしたんだ。対峙するのは怖いが、信念をもってやらなければだめなんだ。『なぜボディーガードをつけないのか』と聞かれることもあるが、殺されるときは何をやっても殺されるからね」

 

 

つづく

 

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桃源社 その1 ビルの不法占拠

桃源社 その1 ビルの不法占拠

平成4年頃、不動産会社「桃源社」佐々木吉之助社長は、赤坂見附駅からほど近い港区の一等地に8階建ての「第54桃源社ビル」を所有していました。

資金繰りに行き詰まり建築代金の一部を未払いにしたため、ゼネコン社員が入り口にバリケードを張り巡らせて封鎖していたところ見知らぬ男たちが出てきました。

110番通報で駆けつけた警察官や社員らが男たちを問いただすと、

「ここは、おれたちが桃源社から借りたんだ」

と言い張り凄んできたため、社員らは帰るしかありませんでした。

帰って登記簿を調べてみると、横文字の聞いたこともない名前の会社が所有権や賃借権移転の仮登記をしていたほか、さらに別の会社に賃借権仮登記が設定されていたのです。

もちろん思い当たるフシはありました。

佐々木社長は以前から不動産売買の仲介やテナント探しなどを頼んでいたブローカーに、印鑑証明など登記に必要な書類を預けていました。

そのブローカーを問い詰めると不動産業者に渡したことを認めました。

業者はビルに最初の仮登記を行った会社でした。

調べていくと、ほかの物件にも次々と賃借権が設定され、最終的には桃源社が所有する約600室のうち、70室以上が不法に占有されていたのでした。

これらは山口組のフロント企業や、それに近い関係者でした。
フロント企業はかつて企業舎弟と呼ばれ、暴力団が親族ら関係者名義の会社を構えて、これを隠れみのに企業活動を行っていたのです。

佐々木社長によるとビルを占有する一般的な手口は、まず通常の賃借人としてテナントに入り込み、2か月目ごろから「サブリース」と称して他人に転貸。

転貸を受けた側は「テナント料を払っている」と主張しそのまま占有してしまう。そして最初の賃借人はテナント料を支払わなくなるという形が多いとのことでした。

 

つづく

 

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昔の民族派右翼機関紙より その6 朱光 老害金丸信の売国外交を喝破す


「コメ」と北朝鮮問題を明確に区別せよ

またも”国”を売るのか

金丸信は引退すべし

政府主脳の醜態に猛省を促す

 

本紙は平成3年(1991年)7・8月合併号ということで今から30年近く前の記事です。

海部首相(当時)のウルグアイラウンド打開のため、コメの部分開放を金丸信を特使として訪米させ、北朝鮮問題も話し合うということでバーター取引が展開されることに憤慨しています。

当時は海部首相が「コメの開放はない」と明言していた時期でした。

その前年、金丸信が訪朝し、金日成主席と「米朝の橋渡しをする」と大見栄を切ったものの、米国側は「コメ問題と北朝鮮の核査察問題と一緒にしてもらっても困る」と全く意に介していない状況だったのです。

このような国家百年の課題であるコメ問題を一介の年寄り政治屋に任せて良いのか、と特使に任命した海部首相にも苦言を呈し、金丸信は政界を引退すべしと主張しています。

 

その下には「口軽女クレッソンの日本叩き」と題して

 

「日本は米欧共同の敵。日本人は夜も眠らず我々をやっつける方法を考えている」

「日本は征服を目論んでおり、われわれとは違う世界の住人だ」

これらは5月16日、フランスの首相に就任したエディット・クレッソン女史の言行録の一部である。

日本人を「蟻」とも「黄色いチビ」とも言い放つこの女史に日本外務省が抗議したところ、彼女の反応は次の如くであった。

市場問題で何の教訓も与えられない国からの批判なんだ受け入れられない。救いようのない国の非難は受け入れられない。

(中略)

しかし、われわれが彼女に方言に過敏に反応することは彼女の術中にはまりかねないであろう。彼女の対日批判はECにフランスを売り出すポーズであり、さらにはフランス国民の受けを狙ったものであることは明白であるからだ。

とし、「極めて戦略的な発言であるということに留意しなければならない」と締めくくっています。

 

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