そこで田中弁護士が「こんな裏書類を世間の人に見せるわけにはいかんやろ。ワシがこの書類を預かっておくので心配いらんやろ」
と石橋社長と許永中に言いました。
この合意書は、事実上石橋産業を100億円で許永中に売る内容でした。
そうした疑問を抱きながらも、許永中を抑えるために田中弁護士がそう言っているのだろうと思った林社長は、いわれるがままに合意書に立会印を押した。
それが、後々石橋産業を窓口にした新井組株や当時許永中の影響下にあった日本レース株、あるいは若築建設株などの仕手戦の一任勘定につながっていくとは誰も想像できませんでした。
林社長曰く「何としても石橋の85億円を取り戻したかったし、手形約180億円分を一刻も早く引き上げたいという、焦り」 から来たものでした。
97年2月8日、大阪の全日空ホテルに元大阪高検検事長の富田正典弁護士の音頭取りで関係弁護士らが集まりました。
ここで、富田弁護士が
「石橋さんが許永中に騙されて被害にあっている」とあいさつし、林社長が経過を報告しました。
これに対して、許永中と一任勘定の契約を交わした石橋産業の代理人弁護士が
「100億の合意書があり、それに基づいた一任勘定の合意書もあるので立件は無理」
と言いましたが他の弁護士が、
「その書類があるからこそ詐欺なんですよ」と反論。
石橋産業の代理人として一任勘定の交渉にあたっていたこの弁護士は、「ちょっともらいすぎだよね」と、許永中から相当額の金品の提供を受けていたことを周囲に漏らしていたこともありました。
この時、すでに田中弁護士が「全部保管している」と言明していた1120万株の新井組株は、同弁護士の手元にもキョートファイナンス社にもなく、その大半が売りに出され、許永中が100億円以上の売却益を手にしていました。
石橋産業は、関連財団が所有する「昭和化学工業」株をはじめ、9銘柄の約285万5000株を、2月末を期限に預けていました。
ところが3月に入っても一切返却されず、うち20万株は同月中旬ころ大阪市内の金融業者に持ち込まれ、これを担保に許永中は約2億1000万円の融資を受けていました。
さらに許永中はこの9銘柄の株を京都・都証券に担保提供し、
石橋産業名義で96年12月5日から翌97年2月4日までの間に総数357万7500株の新井組株の株取引をおこないました。
ところが、この取引で多額の担保不足が発生。
このため、石橋産業は名義上の責任をとらざるをえなくなり、都証券に対して、信用取引された新井組株を時価で引き取ることになりました。
しかも、この株357万7500株のうち196万8200株は、許永中と石橋産業の売買契約に明記されていた新井組株の一部だったことが判明。
許永中が売買契約に反して市場で処分していることが判明しました。
こうして石橋産業側と許永中との対立は決定的なものになり、同年3月、林社長は新井組株を譲渡するという約束が履行されなかったとして、キョートファイナンス社の社長を退任しました。
同年6月には勝手に株を処分したとして許永中を横領容疑で東京地検に告訴しました。
この告訴を受けて東京地検が関係者から事情聴取するなどしていた矢先の10月上旬、許永中は渡航先の韓国で姿を消しました。
このため東京地検は、さきの横領容疑だけではなく約203億円の手形のすべてを捜査の対象にして11月17日、大阪の許永中自宅や拠点ビルなど約20ヵ所を一斉に家宅捜索。
一方、石橋産業裏書きのロイヤル社の額面総額約203億円の手形は179億円分キョート社に差し入れられ、残り24億円は田中弁護士が保管していることになっていました。
新井組株は引き渡されておらず、「取り立てしない」という約束だったにもかかわらず、この24億円分の株について97年2月許永中が突然、「取り立てるので24億円支払え」と通告。
驚いた石橋産業側は、保管しているはずの田中弁護士に再三その所在を尋ねたが回答は一切ありませんでした。
このため石橋産業側は10月、田中弁護士を相手どって24億円の手形返還訴訟を大阪地裁に起こしました。
田中弁護士がその24億円の手形返還を申し出たのは、石橋産業側から返還要求が出てから8か月たった11月中旬のことで、東京地検の強制捜査の3日前でした。